他人の星

déraciné

ウィリアム・ゴールディング 『蠅の王』(4)…にかこつけて、「マスクするのしないの云々かんぬん」について

 

 

 「ラーフは他の所を通らず、この固くなっている一条の砂地の上を歩いていった。考えごとをしたかったからである。この砂地の上だけしか、足に気をとられずに自由に歩ける所はほかになかった。波打ち際を歩きながら、彼はあることに気づき、愕然とした。この物憂い人生の姿が、今、急に理解できたように思われたのだ。人生のあらゆる行路は、いわば、その場その場限りのものではないのか、われわれの現実の生活の大部分は、自分の足もとを用心することだけに過されているのではないか、と思われた。」

                      ―ゴールディング『蠅の王』 

 

 

 

もし足もとにだけ気をとられていたら、雪崩が来ても気づかないかもしれない

 

 

 6月も終わりに近づいた、蒸し暑いある晩のこと、実家の母から、電話がかかってきました。

 

 母は、電話口で、ため息をつきつつ、言いました。

 「暑いねぇ……」

 私は、言いました。

 「うん。だから、夏は、マスクを適宜外さないと、熱中症になるから、その方が危険だからね」

 「え!?……でも、マスクしてないと、感染しそうでこわいし…。だから、パパの車の中でも、外でも、ずっとマスクしてるんだよ」

 「あのね、マスクって、自分が感染しないっていうより、他人に飛沫飛ばさないようにする効果しかないの。だから私、人と対面して話さなくちゃならないとき以外は、マスクしてないよ」

 

 そのあと、私は、「自分はマスクをしていない」などと、正直に、母に話すのではなかったと、ひどく後悔することになりました。

 

 折り返し、すぐに、父から電話が来たからです。

 父は、とても90歳を過ぎているとは思えない、大きな、張りのある声で、言いました。

 

 「おまえ、なんでマスクしないんだ!」

 

 しまった、“マスク警察”は、ここにもいたのだった、と気づくには、遅すぎました。

 

 むかしから、何かにつけ、「自分は絶対に正しい」、という勢いで、相手を再起不能なまでにのしてしまう父に、私はずっと、強い憤りを感じてきました。

 

 「そりゃ、私だって、学校とか、人と対面して話さなくちゃならないときには、マスクしてるよ」

 「ほらみろ」

 父は、勢いづいたようでしたが、私にも、考えや意見があります。

 何より、個人の行動の自由は、他人の権利を侵すものでない限り、守られてしかるべきだ、と思ったのです。

 暴君(タイラント)然として、家庭の上に君臨してきた父に、またここで自分をつぶされるのは、絶対に嫌でした。

 

 「でも、ふだんは、マスクしてない。口ひらかないし、しゃべらないから」

 

 私も、パートナーも、一緒にバスに乗ったり、ふつうに買い物をするなどの場面では、マスクをしませんでした。そのかわり、おしゃべりをしないのです。

 パートナーと、コミュニケーションをとりたいときには、こんなふうにしています。

 たとえば、スーパーで、(グレープフルーツ、何個買う?3つ?4つ?)と、ききたいときは、まず、グレープフルーツを指さしてから、指を3本立て、次に4本立ててみせ、パートナーが指を4本立てれば、それで会話は完了です。

 

 そういう私の日常や考えていることについて、何も知らない父は、あと一歩で、私を負かすことができる、と思ったのでしょう。

 「口ひらかないで、どうやって呼吸するんだ」

 私は、言いました。

 「鼻呼吸だもん」

 

 父は、黙りました。

(その後も、しつこく言葉の応酬は続き、私は、へとへとになりましたが)。

 

 

 そのとき私は、父が代表しているもの、それが、いまの、(あるいは、これから先の)社会の姿のような気がして、何だかいやな、こわい感じがしました。

 このまま、この状態で、「マスクをすることが正しい」という多数派の主張に、みんながなだれこんでいったら、どうなるのだろう?と思ったのです。

 

 実際、マスクをしている人たちが、なぜマスクをしているのかアンケートを取った研究(同志社大学社会心理学)で、一番多かった答えは、「みんなが着けているから」であり、自分や他人が感染するのを防ぐためではありませんでした。

                     (参照:デジタル毎日 2020.08.11)

 

 

 知覚過敏などでマスクを着けられない人もいますが、そうした人がマスクをしなくてよいのは当然ですし、同じように、高齢であるとか、持病があるなど、そうした人たちへの特別な配慮が必要なのはいうまでもありません。

 実際、私は、実家へ行ったときには、マスクをはずしません。

 自覚なしに、高齢の親に感染させてしまう可能性がある以上、はずす気にはなれないからです。

 あんなふうに言っておいて、「そこまで(実家に来てまでマスク)しなくても…」などと、矛盾したことを言う親への、ちょっとした(かなりの)“いやみ”の気持ちも、まったくない、とは言えませんが………

 

 

 別に何も、マスクしないでべらべらしゃべりまくって、飛沫飛ばしまくって、感染を拡大してやろう、なんていう気は、さらさらありません。

 ただただ、多数派の論理で、自分が納得もしていないことに無理やり服従させられることに「否」と言うことや、思想信条の自由と同じように、最低限度の行動の自由が保障されないのだとしたら、それはとてもこわいことになるのではないか、と感じるのです。

 

 ですから、私は、「マスクをしていない私」に向けられる、「こいつ人間じゃねぇ」というような視線や言葉に耐えられなくなるまでは、マスクを、なるべく着けないでいようと思っていたのですが、かなしいかな、私は、そこまで強くありません。

 

 最近では、それが随分と身にこたえるようになり、「外出恐怖症」気味になってきてしまったため、ウィルスではなく人から自分の身を守るための「護身用として」、マスクを持ち歩き、着けることも、多くなりました。

 

 けれども、そうやって外を歩いていると、以前よりもずっと、胸を締めつけられるような心細さを感じるようになったのは、いったい、なぜなのでしょう。

 

 まるで、四方八方、断崖絶壁、ほとんど幅もない尖った場所に、たったひとりで立っているかのような………。

 

 

 

 

少数派は、悪者?

 

 故・なだいなだ氏は、他人からよく、「どうしておまえはそうへそまがりなんだ」と言われることがあったそうです。

 それに対して、なだ氏は、自分のまわりの、大多数の人が、右に行くなら自分は左へ、左へ行くなら、自分は右へ行かなければ、という衝動を感じる。なぜなら、そうしないと、船が傾いて、沈没してしまいそうな気がする、と説明しました。

 

 「ともかくも、これが、私のへそまがりの本当の理由であるので、一見、反社会的、反連帯的な衝動のように見えながら、それが、私の他の人々との連帯意識のあらわれではないかと思うのです。」

             なだいなだ『人間、この非人間的なもの』ちくま文庫

 

 

 つまり、なだ氏にとっての社会的・連帯的行動とは、安易に周囲の多数の人と同じ行動を取ることではなく、その行動が社会全体に与える影響まで広く見渡し、(おそらくは、少数弱者の人たちが居場所を失うという事態をもなるべく防ぐために)、自らあえて、バランスをとるための行動に出ることなのでしょう。

 

 

 「少数派は悪者に見られやすい」という人間の無意識的メカニズムについては、社会心理学では、ハミルトンとギフォードの、誤った関連づけの実験においても、確かめられています。

 具体的には、少数派集団のメンバーが取った不適応的な行動は、(多数派集団のメンバーがたとえ同じくらい不適応的な行動を取っても)より目立ち、より「悪い」と評価されやすい、ということが明らかになりました。

         (参照:斎藤勇『イラストレート心理学入門(第2版)』誠信書房

 

 多数派は、多数派であるというだけで、「ふつう」で「正しい」、「優れている」とみなされやすい(ビートたけしさん、きよしさんのツービートの「赤信号、みんなで渡れば怖くない」はまさに名言ですね)のに対し、少数派は、少数派であるというだけで、「異常」、「不正」、「劣っている」とみなすという、人間の認知のゆがみが根底にあるのです。

 

 こうした認知のゆがみは、人間が日常生活の中で受け取る情報量と、解決しなければならない課題があまりに多すぎるため、簡略化して対処する過程で起こることなので、「治す」ことはほぼ不可能です。

 しかも、この「多数派は正しい、少数派は間違っている」という考え方・感じ方は、差別や偏見ではなく、客観的事実だと思い込んでしまいやすい、というところにも、たちの悪さがあるのです。

 

 

 

 たとえば、ヒツジの群れは、先頭のリーダーが崖から落ちると、全頭、みんな一緒に落ちてしまうそうです。(小原秀雄『人間(ヒト)学の展望』明石書店

 別に「集団自殺」を遂げるつもりがあったのではなく、おそらくは、その先に、新しくてたくさん餌のある生存場所があると信じて、リーダーのあとを、みんなついていくわけですが、群れには、「走る」という止まりがたい、強くて勢いのあるエネルギーが働いており、たとえリーダーが危険を察知して立ち止まろうとしても(大地がない!!)、あとからあとから押し寄せてくる群れの圧力に押されて、結局、みんな仲良く、一緒に崖の底へ落ちてお陀仏、になってしまうのです。