“無意識の偽善者”
いま、ちょうどNHKで、『未来少年コナン』というアニメが深夜に再放送されています。
言わずと知れた、あの宮崎駿監督が手掛けた1978年の“名作”ですが、私は、あの中に登場する美少女「ラナ」が、あまり好きではないのです。
彼女の祖父は、(使い方いかんによっては、人類を破滅に導く)太陽エネルギー開発に携わった科学者の一人、ラオ博士で、ラナには、ラオ博士とテレパシーで話す能力があります。
そのせいで、彼女は、太陽エネルギーをわがものにしようとする「レプカ」を筆頭とする“悪者”たちに狙われ、さんざんな目に遭わされます。
第19話『大津波』では、もともと“やんちゃ”な性格ではあったものの、今ではすっかりレプカの部下モンスリーと手を組んだ「オーロ」が、津波が来ることをみんなに知らせようとするラナの前に立ちはだかって脅すのに対して、ラナは、こんなふうに言うのです。
「オーロ!あなたって、どうしてそんな人間になっちゃったの!」
完全に、上からのもの言いです。
こんなことを言われたら、たとえオーロでなくたって、その横っ面をぶん殴ってやりたくなるだろうな、と思いました。
自分を殴る者に、ラナは、抵抗一つせず、黙って耐えます。
それよりも、何よりも、「明らかに悪いことをしている」人間に向かって、ラナはいつも、まばゆいばかりの正しさに輝く強い目で、相手を、じっとみつめるのです。
たとえ、どんな理不尽な、ひどい目に遭わされても。
なんと、彼女は罪深い人間だろう、しかも、彼女にその自覚はあるだろうか?
いや、みじんもないに違いない、と、私は思いました。
夏目漱石の『行人』の中に、こんな言葉があります。
「一度打っても落付いている。二度打っても落付いている。三度目には抵抗するだろうと思ったが、矢っ張り逆らわない。僕が打てば打つほど向(むこう)はレデーらしくなる。そのために僕は益(ますます)無頼漢(ごろつき)扱いにされなくては済まなくなる。僕は自分の人格の堕落を証明するために、怒(いかり)を小羊の上に洩らすのと同じ事だ。」
夏目漱石『行人』
私は、夏目漱石の作品の中で、『行人』がいちばん好きです。
お互いに、分かり合い、信じ合いたいのにそうなれない、夫の長野一郎の苦悩と、その妻である直の孤独が、いたいほど生々しく伝わってくるからです。
この二人は、夫婦という形だけでなはい、普遍的に人と人の間に存在する、「まるごと分かり合いたくても分かり合えない」、「まるごと信じたくても信じられない」、人の世に生きる孤独や淋しさを、みごとに描いていると、私には感じられるのです。
上述の言葉は、直に対する一郎の気持ちを表したもので、一郎は、直を「打っていた」のであり、いまでいえばドメスティックバイオレンスになりますが、いわれのない暴力を受ける被害者の気持ちを説明する言葉はたくさん聞きますが、加害者側の心情が語られることは、まだ少ないのではないでしょうか。
「いうまでもなく」、弱いものに手をあげるなど、最低です。
けれども、「いうまでもなく」だからこそ、“善”や“正しさ”は、おそろしいのです。
それに対して、“悪”をおこなうものには、おそらく、“善”をおこなうもの以上に、(たとえ本人は自覚していなくとも)、無意識的な罪悪感が心を責め苛むはずです。
それは、ある種の取り返しのつかなさを感じさせ、“悪者”は、よりいっそう悪者らしく振舞わなければならなくなります。
たとえば、こんなふうに。
「ここまでやっちまったら仕方がない。どうせ俺は悪者さ、それならもっともっと、悪いことをしてやろうじゃないか」
だからこそ、「正しいこと」を言ったり、やったりしようとするときには、謙虚さと自戒をもって、ひかえめに、でなければならないと私は思うのです。
「悪」をつくりだす「善」
物語のタイトルとなっている「蠅の王」とは、今でこそ、サタンに匹敵するほどの大悪魔として知られる「ベルゼバブ」(あるいは「ベルゼブブ」)ですが、実はこの「蠅の王」は、もとはカナン人たちが信仰する「バアル・ゼブル」(至高の王)でした。
ところが、この異教の神は、ユダヤ人から嫌われ、嘲笑的に、「バアル・ゼブブ」(蠅の王)と言い換えられてしまい、キリスト教の普及とともに、悪魔「ベルゼバブ」として定着してしまったのです。
(荒木正純『知っておきたい 天使・聖獣と悪魔・魔獣』西東社 2007年、
実は、“悪魔”という存在そのものが、そうなのです。
唯一絶対神を信仰する一神教では、神は「唯一無二」でなければならず、しかも、完全に善なる正しい存在でなければなりません。
すると、その反対の「悪」とは何かを明確にしなければならなくなります。
「善」とは何か、それが信じるに足る尊い価値があるものなのか、まるで説得力がないからです。
なぜなら、人間が、何かを判断するときには、必ず比較の対象を必要とするからです。
比較するものが何もないと、“色”さえも、判断できません。
視界が全部黒だと「ブラック・アウト」、全部白だけだと「ホワイト・アウト」と言いますが、比較対象となる他の色がない限り、その色が一体何色なのか、わかりません。
(あるいはまた、比較の対象となる色が何色か、たとえば、となりに来る色が黄色か、青色かによっても、同じ「赤」でも全然違う色に見えます。)
大きいとか、小さいとか、好きとか、嫌いとか、そうした日常的で簡単な判断ですらそうなのです。
ですから、神こそ絶対的に正しい存在であるということを、人々に納得させ、真の深い信仰を引き出すために、悪魔は必要不可欠だったのであり、神は、悪魔なしには存在しえないのです。
正義のヒーローは、どこかの時代のどこかの世界で、悪さをするものがいて、それで困っている“善良な人々”を救うためにやってきます。
正義のヒーローが、いかに清く正しい(だからこそ強い!)存在であるか、私たちを納得させるために、敵となる悪者は、この上なく卑劣できたないヤツでなければなりません。
しかも、必ず“善”は勝ち、“悪”は負けなければなりません。
人々に、疑うことなく“それこそが唯一無二の善である”と、かたくかたく信じさせるために。
そして、そこに、寄る辺なき人々を“帰依”させ、同一化させ、自我を肥大化させて、まるごとのみ込んでしまうために………。