他人の星

déraciné

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(5)―「それでも、やっぱり、“エヴァ”が好き」

 

 

“親は、他人のはじまり”

 

 

 自分と、「世界」―多くの場合、それは、「他人」の存在に象徴されますが―との間に、どうしても感じてしまう、違和感。

 

 それを、「おそろしい」、「こわい」、「こころぼそい」、という感覚でもって、私が初めて意識したのは、たしか、まだ5歳くらいの頃のことでした。

 

 私は、小さい頃、体が弱く、よく高熱を出して、病院へ連れて行かれたのですが、その帰り道でのことでした。

 

 具合の悪い私を、なるべく早く家に連れて帰らなければ、と思ったのでしょう。

 

 母が、ふいに片手をあげて、タクシーを止めたのです。

 

 たったそれだけのことなのに、私は、ひどく驚いてしまいました。

 

 この世界で生きていく、ということは、あんなに速いスピードで走っている車を、自ら手をあげる、という気力と体力を使い、ほとんど無理矢理にでも止めて、そこへ(まったく知らない、赤の他人が運転する、得体の知れない乗り物に)、乗っていかなければならない、ということなのか……。

 

 こわくなったのです。

 

 おそらく、それまでにも、様々なできごとによって、うすうす感じていたのだと思いますが、決定的だったのが、そのできごとでした。

 

 そのとき、私は、親と、親の肩越しに見える“世界”から、はじき飛ばされたのです。

 そこから、「私はひとりだ」という感覚が押し寄せ、私を圧倒してしまうまで、さほど時間はかかりませんでした。

 

 

 私は、親になったことがないのでわかりませんが、親にとって子どもは、自分の一部のようなものなのかもしれません。

 

 私には、自分の心身の成長とともに、どんどんはっきりしていく、「私はひとりだ」という事実、つまり、「親とは違う、一人の人間だ」という私の主張を、親があまり喜ばない、ということも、感じ取って、知っていました。

 

 「きょうだいは他人のはじまり」、とはよくいいます。

 それはもちろんですが、私は、親こそが、「他人のはじまり」だと思います。

 

 親子には、血のつながり、情のつながり、つまり「絆」があるとか何とかいいますが、「絆(きずな)」とは、そもそも「絆し(ほだし)」のことで、馬とか牛とかをつないでいる、あの縄のことです。

 

 上下関係、というものは、上位のものにとっては、あまり意識されないことが多いようです。

 親子関係もまた、明らかに、力や勢力、立場の上で、上下関係に違いないのですが、それをわかっている親は、いったいどのくらいいるのでしょうか。

 

 関係に無頓着に見えて、好き勝手する側の方が、関係のゆくえを左右してしまうのが、人間関係というものです。

 

 誰が「馬や牛」なのでしょう?

 それを、縄でつないでおこうとするのは誰なのでしょう?

 

 自覚があるにしろ、ないにしろ、多くの場合、つながれるのは子どもで、つないでおこうとするのが親だと、私は思います。

 

 つまり、絆というものは、両者合意の上で、好き好んで“つながれ合っている”ことだと誤ってイメージされやすいのですが、決してそうではないのです。

 

 上に立つ者が、その縄を放したがらないことが、圧倒的に多いのでしょうか。

 

 

  “誰が、親と、縄でつながれていたいもんか!

  冗談じゃねぇ!”

 

 

 

“世界は私を愛さない”

 

 エヴァの世界観の軸になっていたのが、碇ゲンドウとシンジの親子関係であったこと。

 

 最後のエヴァンゲリオンを見て、あらためてそのことに気がつきました。

 

 ゲンドウは、人間嫌いですが、決して強い人間ではなく、自分と違う他人をおそれ、怯えていました。(ちなみに私は、強い人間よりも、弱い人間が好きです。人間らしいと感じるからです)。

 

 そうして、他人という、いかんともしがたい違和感や気持ちの悪さを、自分の息子であるシンジにも感じるからこそ、彼を、冷たく突き放したり、自分の思いどおりにしようとしてみたりするのです。

 

 シンジは、そんな父に、反発や憎しみを抱きつつも、父に自分を見てもらいたい、認めてもらいたいという執着でもって、“縄につながれ”、父ゲンドウのまわりをぐるぐるめぐっては悩んでいます。

 

 親が、他人のはじまりであって、世界が「ひとりの私」を受け容れてくれるのか、それとも、受け容れてくれないのか―愛してくれるのか、くれないのか―、そのいちばん最初の経験であるゆえ、それ以降の、人間関係へののぞみ方の雛型になるのです。

 

 そうして、この父子の物語は、息子のシンジが、父ゲンドウを、横暴な親ではなく、ただのひとりの人間として理解しようとしたとき、父の呪縛の縄から自由になり、「大人」になることで、大団円を迎えるわけです。

 

 

 風呂敷の、布の四隅を丁寧につまんでいき、最後にきちんと結ぶことができてはじめて、物語の世界がほころびなく「完結する」のですから、シンエヴァは、実に見事にそれをやってのけた、といえると思います。

 

 そして、布を包んでいく、その過程に、物語世界を創った「神さま」の、「人間かくあるべき」とか、「世界かくあるべき」とか、「大人かくあるべき」など、言いたいことや主義主張、思想、信条が色を添えていきますから、そこには、見る人見る人によって、賛否あって当然なのです。

 

 私自身、ここまで書いてきたように、そのへんでは、この物語世界の「神さま」の思想主義主張、信条には同意できませんでした。

 

 けれども、物語としての「エヴァンゲリオン」の閉じ方については、おみごと、としか言いようがありません。

 

 

 私は、物語の醍醐味は、自分の現実や日常を離れて、その世界の中に、まるで泥の中にでも埋まるようにどっぷりとつかり、登場人物に感情移入し、一緒に旅をして、帰ってくることができることだと思うのです。

 

 そうして、登場人物の、どうにもならない気持ちや悩み苦しみが、リアルに生々しく、こちらの胸をしめつければしめつけるほど、こちら側に戻ってきたときに、何かをやり遂げたような爽快感や、こちらの感情が浄化されたようなすっきり感があるのです。

 

 

 

 

“けれども、物語は私を愛してくれる”

 

 

 1995年。

 友人から、噂を聞き、ビデオで見たときから、私は、エヴァの世界に夢中になりました。

 つき合いが、こんなにも長くなったこともあるでしょう。

 シンジも、カヲルくんも、ゲンドウも、アスカも、ミサトさんも、現実世界の知り合いや友人などより、ずっと身近で、親密に感じられます。

 

 なかでも私は、綾波レイがとても好きでした。

 

 エヴァを見はじめた当初、綾波レイこそが、エヴァの象徴だと感じていたので、今回、シンエヴァでの綾波の扱いや存在感が、あまりに軽すぎたことも、決して小さくはない不満です。

 

 あんなふうに、渚カヲルと何となく一緒に駅のホームにいて、何となくのハッピーエンドではなく、もう少し何とかならなかったのか、と……。

 

 

 それというのも、私は、たとえ、真希波マリの言うように、「あんたのオリジナルは、もっと愛嬌があったよ」、であっても、私が好きだったのは、愛嬌があって、聖母のようなユイではなく、愛想もへったくれもないレイの方でしたから。

 

 だから、綾波もまた、碇ユイのクローンという縄から自由になり、きちんと救済されてほしかったのです。

 

 表情に乏しく、寡黙で静かな、謎めいた青い少女の、そのままで。

 

 

 

 現実、結論をいえば、世界は私を愛さないのだと思います。

 

 無条件に受け容れ、許すことが「正しい愛しかた」であるのなら、そんなものは、この世に存在しないと、私は思います。

 

 人間は、神ではないのだし、人の世で、人が人を愛するのは、いつだって、「条件付き」です。

 

 

 そして、「私はひとりだ」、という事実には、とてもいろいろなものが混じり合っていると思います。

 

 とても悲しくて、孤独で、さびしくて、「ひとりなんて絶対イヤ」なのに、同時に、「ひとりでないのも絶対イヤ」なのです。

 

 それは、赤木リツコが言ったところの、“ヤマアラシのジレンマ”であって、生きている限りは解決しない、ずっとずっと、人の中で、押したり引いたりし続けなければならない、片付かない苦悩なのではないでしょうか。

 

 

 

 

      「キミはひとりじゃないよ」 とか

      そんな嘘は もう つかないで

      ただでさえ 悲しいのに

      もっと 悲しくなる から

 

      「絆だから」 と言った

      あの 紅い瞳の少女は きっと 命がけで

      世界(みんな)と つながれていたかった

      なぜなら 彼女の命は

      つながれていなければ ほんとうに 尽きてしまうから

 

 

      「キミはひとりじゃないよ」と 嘘じゃなく

      ほんとうに 言ってくれるのは

      物語 だけ

 

      人はみな 急いで 来て 急いで 去って行くから

 

 

      子宮から はじき出された あの日から

      「私は ひとりだ」 を抱え

      膝を抱えて 座ってる

      けれども 決して もとには戻れず

      戻りたいとも 思わない

 

      「心は 痛がりだから」 と

      あの 紅い瞳の少年は 言った

      人は こわがりで さびしがりだから

      となりにいて 愛してくれるのは

      物語 だけ 

 

      そう

      ライナスの 毛布のように

      お気に入りの ぬいぐるみのように ね

 

 

  

 

 

                            《おわり》 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あいしてル

 

       ひ と

 

       いらだち を 感じる

       いきどおり を 感じる

       いたみ を 感じる

 

       異星人のように 異質で 

       いごこちが 悪くて         

 

       いれば

       いなければいいのに と 思う

       いなければ

       いればいいのに と 思う 

 

       いとおしい と 思うのは

       気まぐれな 晴れ間のようで

       のち

       ずっと 曇り

       のち

       ずっと 雨 

 

       すべては 謎

       濃い霧の はるか 彼方

 

       わたし と 他人(ひと) の間に

       きょうかい線を 引くものは 何

       この 言い知れない

       違和感の 正体は 何 

 

       思いをつたえようとして

       互いに 空気を 振るわせてみたところで

       不協和音の 連続

       どんどん どんどん 音が濁って

       最初の音は きこえない 

 

       “あ・い” って 何 

       いくら辞書 引いて 調べても

       しかつめらしく 思案しても

       てがかりは みつからず

       ルイスイ オクソク 歯が立たず

 

 

       たしかなのは

 

       暗い森の 小径のように

       縷縷と続く 不安と 孤独

 

       ただ それ だけ

 

 

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胸いっぱいの 愛を

 

 

       風が吹く夜

       彼は ひとり 

       空き地で ボールを 蹴っている

 

       ほんとうは 小さい彼を

       街灯のあかりが 

       大人のように 大きくする

 

       昼間の光の下にも 彼はいて

       こっそりと

       風が揺らす 枝葉の木陰で

       うかれ 遊び

       ひっそりと

       いじわるな 皮肉を言っては

       くすくす 笑う

 

       「ね きみは 知らないだろう

       たすかるために おぼれるってこと」

 

 

       しんとした 夜の真ん中で

       いまも

       ボールを蹴る音が きこえる

       音だけを あとに残して 飛んでいく

       夜更けの ジェット機のように

       どこか かなしく せつなく

 

       街灯の下の 長い影

       彼は 遊び うかれ 

       皮肉を言って くすくす 笑う

 

       どんな光も 及ばない

       果てなく広い 闇の すみっこで

 

 

 

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記憶

 

 

       あれは いつのこと だっただろう

 

       彼女は ひとりで

       波打ち際に 立っていた

 

       はじめ ぼくは

       彼女の つまさきを

       いつも 貝殻にしてやるようにして

       塩辛い舌で もてあそんでいた

 

       ほんの おあそびの つもりで

       彼女の 足のまわりの砂を さらっていった

   

        彼女の 足は 少しずつ 砂に うもれていき

 

       ぼくは もう少し あと ほんの少し

       こわがらせてやろう と 思ったの かもしれない

 

       彼女が あまりに 何にも 動じない ものだから

 

       次に 気がついたとき

       彼女は

       まるで そのタイミングを 知っていたかのように

       ぼくのなかへ 入ってきた

 

       太陽が きらりと光って

       ぼくの波の いちばん高くて 尖ったところを

       明るく 照らし出した

       彼女の 瞳には ぼくが うつっていた

 

       ぼくは はっとして

       いちど 飲み込みかけたものを はき出すように

       彼女を 押し返した

 

       彼女は 胸元まで 水に濡れて立ち

       古い流木のように 動かなかった

       小刻みに 肩をふるわせ 息をして

 

       彼女は 思って いたのだろうか

       自分が 広大な砂浜の

       砂の たった一粒にも 及ばない

       そんなにも はかなく おぼろげな 存在だ と

 

       ぼくは ぼくらで ぼくらは ぼくで

       風に ちぎれて 泡になって 砂に 吸い込まれても

       ひとつだから

 

       彼女は ぼくと ひとつに なりに きたの だろうか

 

       呆然と立つ

       彼女の 顔に うかぶのは

       くやしさ 

       いかり

       かなしみ

       さびしさ

       むなしさ

       あきらめ

       いたみ

       くるしみ

 

       いままで

       ぼくの ふところに 飛び込んできた

       たくさんの 思いと

       照らし合わせて みる けれど

 

       いつしか 彼女の姿は 

       刻一刻 濃くなる 夕闇に 消えて

       それっきり

 

 

 

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(4)―「僕たちの、失敗」

 

 

「何十日も仕事して、その持久戦に耐えていくあれがなくなって。だからしんどくなってきて。あの状態で生きていこう思ったら、誰か他人でも親戚でもね、僕がその時点でも思っとったんやけど、十二万円の障害年金渡すから、上げ膳据え膳でずっと一つの部屋にかくまってくれるような人間がもしおったら、生きとったと思うけどね。」

  岡江晃 『宅間守精神鑑定書ー精神医療と刑事法のはざまでー』亜紀書房 2013年

 

 

 

“極限環境微生物”

 

 今回の新劇場版で、私が、いちばん気持ちをゆさぶられたのは、実の息子・シンジへ向けて語られた、碇ゲンドウの、初めての内面の告白でした。

 

 ゲンドウは、幼い頃から、人間の集まる場所が苦手で、本ばかり読み、誰とも交流をもとうとしない、孤独な青年でした。

 それというのも、本来、人間というものが、ひどく曖昧かつ不確実、無神経、無責任な存在だからであり、「その時は、本当にそう思った」か、あるいは、「心にもないのにその場の流れで」、コミュニケーションするからです。

 

 彼にとっては、そのコミュニケーション自体、というよりも、その場かぎりでころころ変わる、相手の言葉なり素振りにふりまわされ、自分の心が動揺し、かき乱されることが「しんどかった」のではないのでしょうか。

 

 相手は、たいして考えもせず、意識もせずに何かを言ったり、しぐさや目つき、表情を変えたり、行動したりするのでしょうが、それをいちいち真に受けてしまうような人間は、どうなるのでしょう。

 

 たとえば、それが、相手の自分への敵意や悪意からではないのか、と疑心暗鬼になったり、あのときの、自分の視線が、しぐさが、行動が、相手を不愉快にさせたのではないか、果ては、じゃあ、相手にそう取られないよう、「ああしておけばよかった」、「こうしておけばよかった」と、頭の中で、勝手に、エンドレスぐるぐる思考がはじまるのです。

 

 これではもう、頭が疲れてしまい、神経がすっかりやられて、とてもではありませんが、日常生活に(まして、対人関係に)対処することはできなくなります。

 

 

 けれども、そんなゲンドウに、転機がやってきます。それが、ユイでした。

 彼女は、ゲンドウを、ありのままに受け入れ、包み込んでくれた、まるで聖母のような女性でした。(そんな女性は、現実には存在しませんが)。

 

 ですが彼女は、エヴァ起動実験中の不幸な事故によって、死んでしまったのです。

 

 もともと居場所がなく、世界への期待をもたずして生きていた人間が、一度抱いた希望は、救いようもなく膨張し、行き場を失って、この世に希望があるなどと思いもしなかったむかしよりも、さらに苦しむことになります。

 

 自分を受けとめてくれた存在を喪ったゲンドウの心は、まるで迷子になった子どものように、ユイを求めて嘆き、泣き叫びます。

 それが、実の息子だけでなく、大勢の人を巻き込んだ、とてつもなく自分勝手ではた迷惑な行動へと、彼を駆り立てたのです。

 

 ただ、ただ、もう一度、愛するユイに逢いたいがために……

 

 

 私は、そんな碇ゲンドウに、宅間守元死刑囚を思いました。

 

 彼はもう、(やっと死なせてもらって、楽になって)、この世にはいません。

 

 彼もまた、そのエンドレスぐるぐる思考の持ち主で、身も心もすり減らし、自殺を試みて失敗し、人間同士の和を基調としているこの世から疎外されて居場所をなくし、追い詰められて、あのような、悲惨な事件を引き起こしました。

 

 本を読む限りでは、よくそこまで生きていたものだ、と思うほど、彼の神経は、とうに限界を超え、すりきれてぼろぼろでした。

 

 冒頭にあげた、彼の言葉は本音だと思います。

 

 部屋を一つやる。おまえは、外へ出なくてもいいし、人と関わりをいっさいもたなくていい。めしのことも含め、命、日常生活の心配ご無用。安心して、ここにいていい。

 

 もし、誰かから、そう言われていたら………。

 おそらく彼は、尊い子どもたちの命を奪わずにすんだことでしょう。

 

 

 

人権思想が人権を蹂躙する

 

 しかし、「人権思想」、などという、見せかけのヒューマニズムが大きな顔でまかりとおっているいま、人を、ある種の“座敷牢”に一生とじこめておくことなど、不可能でしょう。

 

 かつて精神障害者の家族は、家に座敷牢をもうけ、そこに本人を一生閉じ込めておくことを、公然と許可されていました。

 当時、富国強兵を急ぐ軍国主義国家日本は、世の中の治安を乱しかねない人間を、家族に一生背負わせるという、最も安あがりな方法で、社会的に抹殺したかったのです。

 

 無論、個々の人間の尊厳を、社会全体の利益のために犠牲にしてしまうことには断固反対です。

 

 ただ、その一方で、画一的な人権思想ゆえに、多くの生物が生きられる“普通”の環境では生きられず、生息条件を極端に限った“極限環境微生物”のような、少数の人間の懇願の声―「私は日常がおそろしい、生活がこわい、外社会も、人間関係もしんどい、だから、どうか一生私を閉じ込めておいてくれないか」―が、かき消されてしまった、という現実もあったのだ、ということに、気づかせてくれたのです。

 

 

 昨今では、引きこもりの人たちを農業に参加させたり、人づきあいに不安を感じる若い人たちを、笑顔0円対人サービス不要の農林水産業への就職を斡旋したりしているようですが、そうした“お誘い”に、たとえ家族にすすめられてしぶしぶではあっても参加する人たちは、たまたま人間関係につまずいたことをきっかけとして、引きこもっただけで、環境さえ整えば、十分に、人の中で生きていける人たちなのかもしれません。

 

 

 けれども、人間に生まれながら、人の中でやっていくことのできない人も、本当にいるのです。

 

 人とやっていけないにもかかわらず、人間に生まれてしまったことを、何かの呪いか、罰のように感じる人たちが……。

 

 

 そうした人たちが、どのくらいの数かはわかりませんが、たとえごく少数であっても、確実に存在するのです。

 

 

 ウィキペディアで、「極限環境微生物」を調べてみると、こんなふうに書いてありました。

 

 「極限環境条件でのみ増殖できる微生物の総称、なお、ここで定義される極限環境とは、ヒトあるいは人間のよく知る一般的な動植物、微生物の生育環境から逸脱するものを指す。ヒトが極限環境と定義しても、極限環境微生物にとってはむしろヒトの生育環境が『極限環境』である可能性もある。」

 

  

  そうです。

 

 人間がよく知っている、ごく普通とされる生育環境とは、多数の生きものが生きられる環境のことであって、多数派から見ると、逸脱していて、異常な環境=極限環境と見えますが、「極限環境微生物にとっては、むしろ、ヒトの生育環境の方が極限環境」に見えるのです。

 

 あんな、不安定で不確実、曖昧で、あやふやで、無責任、無神経な、その場限りの関係やコミュニケーションの中で、いったいどうしたら、平然と、平静を保って、生きていけるんだ?

 そんな空気にふれただけで、僕なんか、もう、息もできなくなってしまうよ……。

 

 

 

 ヒトは、他の動物と比べても、外見にあまり大きな違いはなく、よく似た姿形をしています。それにひきかえ、内面は、想像以上に、多様すぎるほど多様なのです。

 

 けれども、それすら、ある種の“呪い”かもしれません。

 

 もし、外見からして、それとわかるような多様な姿形をしていれば、こんなにやっかいで、面倒で、煩わしい、しかも、あまりに残酷な現実におそわれることなど、なかったかもしれないからです。

 

 

 

                                 《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜ごとの 訪問者

 

 

 

       「ねぇ きみ」

 

       僕は この声に 慣れている

       この声を 知っている

       夜ごと あらわれる

       轢死した という 男の 声だ

 

       「あの 遮断機も 警報機も

       人を 電車から 守るためのものじゃない です」

 

       また そこから 話すか と 思いつつ

       僕は 布団の上で 身じろぎもしない

 

       「むろん あいつだって 走りたくて 走ってるわけじゃない

       あの 鉄の塊は 時間の 奴隷で

       遮断機も 警報機も  

       あいつに 同じところを 同じ時間に 走らせるため 

       入り込む だとか 飛び込む だとか

       そういう 人間の 妨害から

       あいつを 守るためのもの であって」

 

       彼はいつも そこで 話を 切る

       そして しばらく 沈黙したあと

       再び 口をひらく

 

       「だから 飛び込んだ です 

       それが わかったから 飛び込んだ です

       せめてもの 抵抗? 

       そんな 大義名分 ありは しません

       ただ ただ 飛び込んだ です

       それで

       あぁ よけいなこと しやがって 遅刻しちまう て

       誰かが 舌打ちするの

       ホームの 上を 漂いながら きいた です」

 

       そうして 彼は いつものように

       さめざめと 泣きだす

 

       「ああ ああ かわいそうだ かわいそうだ みな

       誰も 何も 止められない

       このまま 走って いくしか ない

       ぶつかって こわれる まで

       ああ ああ かわいそうに かわいそうに」

 

       そうして 彼は 透けるように 消えていく

 

 

       翌朝 僕は スーツ着て

       靴を 履くのも もどかしく

       駅へと 急ぐ

       ホームに 立って

       彼のような 人間の血を どれほど浴びたか わからない

       ごつごつした 赤黒いレールを 見ても

       彼のことを 思い出しも しない

 

       頭の中は 今日のことで いっぱいだ

       つくらなければならない 書類の 山 という山

       会わなければならない 人間の 顔 という顔

       すべてが ジェンガみたいに 積みあがってる

       一つも 手順を 間違っちゃ いけない

 

       なのに

       夜ごと 彼は 来る

 

       僕は 忘れても

       彼は 忘れない

 

       僕は 忘れる

       彼は 来る

 

       いつか いつか

       彼が 忘れて

       僕が 忘れない 日が

       来る のだろう か

 

 

 

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(3)―「彼女が農作業着に着替えたら」

 

アヤナミが、農作業着なんか着ちゃったら、おしまいですよ、そりゃ。

 

水着なら、ともかくも………。

綾波には、やっぱり白が……)

 

 

 

新しい“自然”—都市型無秩序

 

 繰り返しになりますが、私がウルトラマンや、ウルトラセブンに感じていた郷愁がいったい何だったのか、その正体をおしえてくれたのが、『新世紀エヴァンゲリオン』、という、テレビアニメでした。

 

 その、新しい「自然」「故郷」というものは、いわば、都市型無秩序、とでも言い換えられそうな景色でした。

 

 戦後の、高度経済成長期。もくもくと、工場から立ちのぼる、灰色の煙。

 

 電柱と、電線とに仕切られ、不自由になった空。

 

 どこまでも行けそうに見えて、そうではなく、いつまでもどこまでもどうどうめぐりする、電車と線路。

 

 人間であるがゆえ、人間本来の曖昧さ、無秩序さを忌み嫌い、人間そのものから外へ追い出し、それを、街の景色に転化していった結果生まれた、新しい「自然」への、ノスタルジィだったのです。

 

 

 …ちなみに、「郷愁」、というからには、今ではもうその景色も失われて、今度は、その無秩序や混沌が、街の景色や、あらゆる表層から隠され、奇妙にすっきりと片付いた無機質さにとって代わられつつあるようです。

 近年の家電のデザインも、昭和ちっくな「花柄」、とかじゃなく、ごくごくシンプルなものになってきていますよね。

 

 

 けれども、人は、生きている以上、有形無形、様々な意味での“ゴミ”を出さざるを得ず、それはたとえば、心や内面のどろどろであったり、家や街がモノでごちゃごちゃしているような“片付かなさ”なのですが、いまでは、それすら「見た目が汚い」と忌み嫌われ、隠されて、はじめから無かったかのように抑圧されてしまっていることが、実は少し、気がかりなのです。

 

 

 そういうごちゃごちゃ、ごたごたは、むしろ、顕在化、可視化しておいた方が、何かが起ころうとしているとき、対処しやすいと思うのですが、隠されてしまうと、何もわからなくなるので、“不意打ち”をくらうことになるのではないか、と………。

 

 

 

“意図せざる再帰

 

 「今や、あなたはその土地にのろわれている。………あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

                                                          『創世記4-11-12』聖書

 

 

 

 映画の冒頭、絶望してよれよれのシンジが、アスカに連れてこられたのは、「みんな笑顔」、「みんないい人」、「みんな働き者」の、農村共同体でした。

 

 私はそこで、胃液が逆流するような不気味さを感じたのです。

 (簡単に言えば、「ゲッ」、という感覚です)

 

 

 精神分析創始者フロイトは、ホフマン作の『砂男』をもとに、“不気味”、という感覚について、こんなふうに分析しています。

 

 それは、「抑圧を経験しながら再び抑圧から立ち戻ってきたなつかしくも故郷的なもの」であり、どこか家庭的な雰囲気を帯びており、たとえば「濃霧によって大森林で迷子になり、くり返し同じ場所に戻ってしまう」ような、「意図せざる再帰」、として説明できるようなものです。

 

 わかりやすくいえば、最初にいた場所(おそらくそれは、アダムとエヴァがいた楽園のようなものでしょう)を追われ、永遠に失われたその場所を、記憶の奥に、鍵をしめて閉じ込め、無いことにしたはずなのに、なぜか急に、目の前に現れる。

 

 それが、“不気味”、という恐怖を感じさせる、ということなのです。

 

 

 14歳の頃のトウジは、テレビ版では、使徒化してしまうエヴァ3号機に乗り込むことになり、エヴァでの戦いで自分の妹に大けがを負わせたシンジを許せずぶん殴った、という自分の過去との、複雑な葛藤が描写されていました。

 

 ケンスケは、戦争ごっこをしつつも、それが何の意味もない戯れ事にすぎないこともよく知っていて、様々な意味での強者に対しての、自分の無力さを明らめていました。

 

 そして、ヒカリは、思いを寄せるトウジのためにお弁当をつくったり、エヴァでの戦いに勝てず、自尊心ズタズタのアスカが、自分の家に入り浸り、朝から晩までゲームをしているのに文句は言わずとも、内心では迷惑に思っている、ごくふつうの女の子でした。

 

 少なくとも、1995年に放映された、テレビ版で、彼らはそれぞれに、自分自身や他人に対しての複雑な感情や葛藤を抱えていたわけです。

 

 

 ですが、今回の劇場版に関していえば、それらはすべてなかったかのように、彼らはすっかり好人物の、さわやかな大人になっているのです。

 

 

 たとえば“委員長”ヒカリは、いまや、トウジの良き妻、愛娘ツバメの良き母であり、突然訪れてきた、昔の姿のままのシンジやアヤナミを歓迎し、特に、(仮称)アヤナミレイを「そっくりさん」、と呼び、喜んで迎え入れます。

 

 そして、アヤナミが、初めてきいた言葉を、まるで子どものように、いちいち説明を求めるのに、イヤな顔一つせず、にこにこ笑いながら、優しく、明るく、応えてくれます。

 

 それだけではありません。

 

 畑仕事をするおばちゃん軍団は、何も知らないアヤナミに、「汗水垂らしてはたらく」ことをおしえ、かわいい、かわいいと言っては、いろんな服を着せまくったり、とにかくよく構うのです。

 

 誰一人、彼女が何も知らないのも、慣れない田植えを失敗しても、仲間はずれにしたり、文句を言ったりもしません。

 

 その間、対照的に、ずっとどん底にいて、動きも食べもしないシンジに対して、アスカは手厳しく責め、アヤナミさえも、「碇くんは、仕事しないの?」と言いますが、大人になったケンスケが、彼を優しく見守ります。

 

 

 誰も仲間はずれにしない。誰もひとりにしない。

 みんな笑顔。みんないい人。

 

 それが、私には、あまりに“不気味”だったのです。

 

 田園風景(ジブリっぽい!!)だけではありません。

 

 まるで、ホフマンの『砂男』に出てくる、美しい自動人形オリンピアさながら、リアルさが、感じられないのです。

 

 再び、フロイトの言葉を借りていえば、「みかけは生きているように見える存在に実は生命がないのではないかという嫌疑、あるいは逆に、生命のない物体がなんだか生きていそうな疑い」です。

 

 もうすでに死んだか、あるいは、そんなユートピアのようなものは、人間の妄想の中にしかないにもかかわらず、まるで生きているかのように存在している不気味さ、でしょうか。

 

 そして、その“不気味さ”は、同時に、観る側である、自己存在にもふりかかってきます。

 

 そうした笑顔や明るさ、強い仲間意識と連帯感からは、暗に疎外され、抑圧されている、例えば、「人間らしい」激しい感情の爆発や、癇癪、場合によっては、精神錯乱、正気と狂気のはざまを綱渡りするような人間は、命がない存在にさせられてしまうのではないのか?

 

  

 失われたはずの、もう二度と戻れない、(そして、戻るべきではない)“楽園”の、突然の出現、そこへの再帰に、私は思わず、背筋が凍るほど、ぎょっとせずにはいられなかったのです。

 

 

 

                                 《つづく》