他人の星

déraciné

映画『メランコリア』(4)

 

クレアとジャスティ

 

 さて、幸福になれるチャンスも、夫も職も、何もかもなくした妹のジャスティンは、その後、うつ病の症状でいうところの、昏迷状態に陥ります。

 

 昏迷とは、考えること、感じること、何かをしよう・したいという意志や意欲、ほぼすべての精神活動が制止し、日常生活に必要な活動が何もできなくなってしまう状態です。(ひどくなると、人と視線を合わせず、呼びかけにも反応しなくなります)。

 

 そんな妹に、何とかタクシーに乗って自分の屋敷まで来るよう説得したのが、姉のクレアでした。

 

 長かった髪を切り、生気のない青い顔をしたジャスティンは、自らの内面の闘争にすっかり疲れ果て、あれだけ好きだったお風呂に入ることもできません。

 

 食事も、彼女の好物だからとクレアが用意したミートローフを、一口食べるなり、「まるで灰のようだわ」と、それ以上、食べすすめることもできず、涙を落とすばかりです。

 

 それでもクレアは、まるで母親のように、妹の面倒をみるのです。

 

 

 そんなクレアとジャスティンの姉妹に、私は、聖書の中の、マルタとマリアの姉妹の話を思い出しました。

 

 イエス・キリストと十二人の弟子たちが、旅の途中、ある村に立ち寄ると、マルタという女性が、喜んで、彼らを家に迎え入れます。

 

 二人姉妹の姉、マルタは、主イエスをもてなそうと、あれこれ準備や支度に忙しくしているのですが、その間、妹のマリアは、姉を手伝うこともなく、ただイエスの足もとに座り、話に聞き入っています。

 

 そこで、マルタは、イエスに、マリアに自分を手伝うよう伝えてほしいと言うのですが、イエスは、それに応えて言いました。

 

 「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリアはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

                        『ルカによる福音書10-41,42』

 

 

 ですが、マルタの不満は、おそらく、多くの人がよく理解できる、よく知っている不満ではないのでしょうか。

 

 大切なお客さまをもてなすのに、あれもこれも、やることはいっぱい。

 私だって、イエスさまの話を聞きたいのに。

 まず、やるべきことをやってしまって、それから二人で話を聞けばいいのに、なんで私だけ?

 マリアったら、わがままなんだから!

 

 

 要するに、姉のマルタは、「~べき」、という「正しさ」や規範で動いており、妹のマリアは、「~したい」、という自らの思いや欲求で動いているのです。

 

 姉のマルタはクレア、妹のマリアはジャスティンになぞらえることができるのではないでしょうか。

 

 

 「ときどき あなたが ひどく憎くてたまらない」。

 

 クレアが、ジャスティンへ向けて、劇中、二度ほど発したセリフです。

 

 クレアとジャスティンは、性格や生活信条、行動の面で、対照的です。

 

 この姉妹の母親が言うように、「分別ある娘」クレアは、大金持ちの科学者と結婚し、18ホールものゴルフ場付きの豪邸に住んでいます。

 夫婦関係も円満、一人息子のレオは、まだ幼さの残る少年で、かわいいさかりです。

 

 妹のジャスティンが、しばしば「理解できない」行動を取るのに対して、クレアは、多くの人が望ましいと感じる、常識的な行動のできる、堅実な女性です。

 

 “一財産”かけて(それでも、大金持ちの夫には何でもない額ですが)、お膳立てした披露宴を、当の新婦、妹のせいで台無しにされ、ブチ切れても、うつ病が悪化した彼女を引き取り、面倒を見る寛容さと優しさをもっています。

 

 けれども、彼女たち姉妹は、不信に満ちた人間関係と、破綻した夫婦関係のお手本にしかならなかった、同じ両親のもとで育ったはずです。

 

 にもかかわらず、なぜ姉妹で、こうも違うのでしょうか………

 

 

 

傷ついた心の修復法

 

 他の人から見ると、あまりに無茶でめちゃくちゃな行動をとるジャスティンに比して、クレアは、他の人から見てわかりやすい方法で、過去の埋め合わせをしているかのように見えます。

 

 自分は、父と母のようには決してならない、なりたくない。

 そのための夫選びにも、成功したようです。

 高名な科学者である夫のジョンは、穏やかな性格で、クレアにも、行き届いた気遣いを見せます。

 

 その上、何と言っても、彼は大金持ちです。

 

 先々の心配や不安とはまったく無縁の豪邸に住む「分別ある」奥さまは、誰の目にも、望ましく、うらやましく映るに違いありません。

 

 要するに彼女は、誰の目から見ても「正しい」、「非の打ちどころのない」、「幸せ」な、人並み以上の人生と生活を実現してみせることで、自分の自尊心を修復したのではないかと思います。

 

 

 それに対して、ジャスティンは、自分の父と母の、不信に満ちた人間関係を全身で浴びるように感じてきたときから、まるで時間が止まってしまったかのようです。

 

 彼女の行動もまた、深手を負った自尊心を修復するためのものなのですが、他人の目から見れば、「とてもそうとは思えない」、「迷惑だ」、などと思われてしまいがちなのではないでしょうか。

 

 

 ですが、このような行動は、PTSD心的外傷後ストレス障害)の症状に、とてもよく似ています。 

 

 過去のトラウマ経験があまりに強烈だった場合、それを過去にすることができず、むしろ、似たような経験を繰り返し自分に体験させることで、途切れてしまった過去との融合と和解を実現しようとして、(当然、うまくいくはずもなく)、懲りずに失敗しつづけるのです。

 

 とてもつらそうで、苦しそうで、まわりにも迷惑がかかっているし、「やめればいいのに……、っていうか、やめてほしい」、といってもそう簡単な話ではなく、わかっていても、心についてしまったクセのように、勝手に空回りしつづけるのです。

 

 

 和解できない過去に早々に背を向け、世間一般の規範に照らして「正しい」ライフスタイルを自分のものにすることで自尊心を回復したクレア。

 そして、和解できない過去に、未だ正面きって、負け戦に挑み続けているジャスティン。

 

 

 彼女たち姉妹は、自尊心の修復法も違えば、自分自身を守る方法も、“こわいもの”や不安に思うものもまた、違っているようです。

 

 

 

 そんな彼女たちの頭上には、地球と死のダンスを踊る惑星『メランコリア』が、着々と近づきつつあったのです。

 

 

 

 

                                 《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

双頭の 蛇 

 

 

        何もかも 気に入らない

        ナニモカモ キニイラナイ

 

        何だって?

        何かが おまえの お気に召すようになるとでも?

 

        何もかも 思いどおりにならぬ

        ナニモカモ オモイドオリニナラヌ

 

        何だって?

        何かが おまえの 思いどおりになるとでも?

 

        無数の あざけり笑いが 不気味な地響きのように

        千里先まで 立ちはだかる

 

 

        雨にあらわれ 澄みきった 青い空を 見た日

        「世界ハ 愛スルニ 足ル」と思った

        ああ ほんの少し ほんの少しでいいから

        ひだまりで この 冷たいからだを あたためたい

        と思った 次の瞬間

        おまえは すかさず わたしの 頭を かみ砕いた

 

 

        馬鹿だね おまえ

        分もわきまえず 陽のしたまで のこのこ 出ていって

        その醜さを あたりにさらす気かい

 

        「光も 熱も 優しさもない 冷たい夜に

        ただ すこし なぐさめが欲しかっただけ」だって?

 

        偽りを 言うのじゃないよ

        いったい 何が ほしいのさ

        イッタイ ナニガ ホシイノサ

        言ってみたまえ

        うす汚いヤツめ

 

 

        木にのぼろうとしては 引きずりおろされ

        川に入ろうとしては 岸に戻され 

        南へ 向かおうとすれば 北へ

        東へ 向かおうとすれば 西へ

 

        どちらが 前で どちらが 後ろか

        しまいに 互いの罵声で 何も 聞こえなくなる

        「わたしが 前へ 進もうとするのに

        おまえが 後ろへ 戻ろうとする」

        「ワタシガ 前ヘ 進モウトスルノニ

        オマエガ 後ロヘ 戻ロウトスル」

 

 

        ああ 動けない 動かない

        アア 動ケナイ 動カナイ

        今日も このまま 日が暮れる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『メランコリア』(3)

 

 

 ママとパパが おまえをだめにした

 そのつもりはなかったんだろうが そうなったのさ

 彼らは 自分たちの失敗を たっぷりおまえにつめこんだ

 おまえのためによかれと よけいなものまで追加して

 

 でも 彼らだって だめにされたんだ

 古くさい帽子と コートを着た愚か者にね

 しょっちゅう ひどく混乱しているか

 でなければ 互いの首を絞め合っているようなやつらにさ

 

 人は 人に 不幸を手渡す

 浅瀬の暗礁を 深くえぐるように

 なるべく早く 逃げ出すことだ

 そして おまえは 子どもをもつな

 

                 フィリップ・ラーキン『これも詩だ』

                                                                  Philip Larkin ‘This be the verse‘

 

 

 ※何とか訳してみました。大胆な意訳、あるいは誤訳、ご容赦ください……

 

 

 

“家族教”?

 

 前回、あらゆる広告やコマーシャルに、幸せの象徴として、仲睦まじい親子、家族の絆が象徴として多用されている、と書きました。

 

 それは、売りたい商品や企業のイメージアップのみならず、おそらくは、社会集団の最小単位である家族を安全なものにしておいて、社会の秩序や安寧を維持しようという、社会防衛のための重要な役割を、家族に担わせよう、という意図がなきにしもあらず、なのではないかと、私は思っています。

 

 ……ところで、私たちは、知らず知らずのうちに、あらゆるメディアを通して、こうした幸せ家族イメージをすり込まれているのですが、その効果は、いかほどのものでしょうか。

 

 ここに、興味深い数字があります。

 今年2月、10歳~15歳の男女3,600人を対象として行われた内閣府調査によれば、「自分は親から愛されていると思うか」という質問に対して、「あてはまる」、「どちらかといえばあてはまる」合わせて96.4%、また、「あなたは今、自分が幸せだと思うか」という質問に対しては、「そう思う」、「どちらかといえばそう思う」合わせて93.6%の青少年が、そのように答えています。

 

 この結果を見て、Wow!!日本って、なんて幸せな国なんだ!!と思う人は、どれほどいるでしょうか。

 

 私は、むしろ、こわさやおそろしさを感じました。

 

 というのは、通常、調査などを取ると、「はい」、つまり賛成や肯定的意見と、「いいえ」、つまり反対や否定的意見が、五分五分、とはいかなくとも、せいぜい、6対4くらい(極端に振れても7対3)で拮抗するのがふつうなのです。

 

 なのに、肯定的意見だけに偏って9割、というのは、異常で、尋常ならざる事態です。

 

 もしかして、家族は、幸せなものであるべき、とか、いつの間にか、洗脳されてしまったのでしょうか?

 

 陰謀とか、オカルトとか、そういう意味で言っているのではありません。

 

 メディアによる、恋愛、結婚、出産、家族の幸せイメージすり込みが、このところ、かなり露骨だな、と私自身、感じているからです。

 

 逆に、人を、犯罪者とか、反社会的危険分子にする環境要因を、「孤立」だと、ことさら偏って強調するところを見ると、なおのこと、その意図が、透けて見えてくるのではないでしょうか。

 

 人とのつながり、つまり「絆」(これはもとはといえば「絆し」(ほだし)、つまり、牛や馬をつないでおく縄のこと)によって、連帯責任をもたせ、社会にキバをむく前に、その「危険な」キバを抜いてしまう。

 おそらくは、そんなところでしょうね。

 

 

 実際、私たちが、ニュースなどで見聞きして感じるイメージと違って、凶悪犯罪は、増えていません。

 

 つい最近も、見知らぬ人を殺したり、傷つけたり、そういうニュースばかりを取り上げて、世の中物騒になった、危険だと、あおり立てていますが、それは、事実とまったく異なっています。

 

 たとえば、令和2年の警察庁の犯罪情勢を見ると、令和2年の刑法犯の認知件数は61万4,231件(人口千人当たりの刑法犯の認知件数は4.9件)で、戦後最少だった令和元年をさらに下回っています。 

 

 ちなみに、重大犯罪の被害者になりやすいのは誰かをみてみると、日本は、殺人、傷害致死で、家族・親族が被害者になることが5割以上と最も多くなっています。

 それに対して、殺人に限って見てみると、カナダ、アメリカともに、加害者と被害者の関係は友人・知人である場合が多いのです。(法務省『家庭内の重大犯罪に関する研究』)

 

 要するに、現代日本は、全体として、非常に安全な社会になっており、また、見知らぬ他人が重大犯罪の被害者になることはまれで、家族が被害者になる率が高いという、他の国と異なる特徴をもっているのです。

 

 ……あらあら、ヘンですね。

 

 「私は親から愛されている」、「私は今幸せ」、などと、9割もの青少年が思っている国で、家庭内で重大犯罪が起こる率が高いなんて。

 

 一般に、顕在的な数値として現れる自殺や他殺の10倍は、未遂に終わっており、その周囲には、さらに100倍、1000倍もの、苦悩する人がいる、と考えられています。

 

 大義名分、「家族は愛すべき存在」、だから、「私は愛されている」、けれども、何だか、関係が近い分、適切な距離感を保ちにくくて、決して強く憎悪しているわけではないけれども、「何だか、辛い」、「何だか、息苦しい」、「何だか、淋しい」………。

 

 家族に対して、そんな複雑な思いを感じている人は、それほど少なくはないのではないでしょうか?

 

 

 もしかしたら、人は、家族から、愛し方・愛され方を学ぶのではなくて、傷つけ方・傷つけられ方を学ぶのかもしれません。

 

 

 

“自虐の縄”

 

 話を、『メランコリア』に戻します。

 

 おそらくは、親によって、傷つけ方と傷つけられ方を、十二分に教わったらしいジャスティンの、自虐行為には、歯止めがかかりません。

 

 マイケルにとっては、精一杯の愛情表現だった、りんご園の土地の写真の贈り物のみならず、結婚初夜、美しくゴージャスな妻をかき抱きたい思いでいっぱいのマイケルさえおきざりにして、ジャスティンは、ひとり、ふらふらと、さまよい歩きます。

 

 そして、彼女から宣伝広告のアイディアを引き出すようにと、上司からさしむけられ、ストーカーのように、ジャスティンをつけ回すつまらない男と、まるでトイレで用を足すようにセックスし、上司を「権力欲のかたまり」と罵倒し、彼女は会社をクビになります。

 

 それだけでなく、最愛の妻となるはずのジャスティンの勝手な行動についていけず、ついに、マイケルさえも去っていってしまいます。

 

 

 “愛すべき・愛したかった”対象から、ひどく傷つけられた過去をもつものの、自傷や自虐の凄まじさは、時として、驚くほど容赦がありません。 

 

 

 愛情の対象として、何度も繰り返し喪った両親を、ここへ来て、再び喪い、自分の才能を活かせる職場も地位も失い、夫となるはずだった男性も失い、このあと、ジャスティンは、奈落の底まで、真っ逆さまに落ちていくのです。

 

 

 

 

                                《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『メランコリア』(2)

 

 

 「結婚しちゃいけない!まだ間に合う、考え直すんだ、二人とも。いいことなんて何も待ってないぞ。後悔とにくしみと醜聞と、それからおそろしい性格の子供が二人、それだけさ!」

                 デルモア・シュウォーツ『夢で責任が始まる』

 

 

 

 “しあわせ”、と聞いて、多くの人が思い浮かべるものは、何でしょう?

 

 それは、テレビのコマーシャルを見ていると、わかるかもしれません。

 

 人間が、良いイメージの中でも、最高に良いイメージをもつのは、「幸せ」であり、コマーシャルは、人間が無意識的に“快”と感じるものを、繰り返し、しつこく何度も見せることで、その商品と、企業へのイメージアップをはかります。

 

 なぜなら、通常、人は、良い気分のときに、お金を使いたくなるからです。

 

(ですが、イライラしていたり、むしゃくしゃしているなど、“不快”なときにも、購買意欲は高まるそうです。私は、何かを「買いたい」、という欲求と、何かを「食べたい」、という欲求は、とてもよく似ていると感じます。「買いたい、でも、節約しなきゃ」、「食べたい、でも、ダイエットしなきゃ」、どちらにも後ろめたさ、いわゆる“罪悪感”が伴います。実は、この罪悪感という堰を自ら壊すという背徳感が、強い快感を生み出し、これがクセになると、食行動の異常や障害、買い物依存などにつながりやすいのです)。

 

 商品と、企業のイメージアップ。そして、購買意欲の促進。

 コマーシャルは、一石二鳥ならぬ、一石三鳥を狙うことができるわけです。

 

 ところで、食品から、家具家電、車、家に至るまで、コマーシャルで多用されているものは、何でしょう?

 

 そう、家族です。

 親子楽しそうに遊んで、笑って、憩って、親が子を思い、子が親を思う、幸せ家族、ですよね。

 

 (少し前には、親子デート、なんてものまでありましたね!私は、もう少しで、吐くところでした!)

 

 もっとつきつめて言うと、しあわせとは、“愛”、をイメージさせるもの、ではないのでしょうか。

 

 たとえば、恋愛、その先に約束される、幸せな結婚、そして、家族愛。親子愛。

 

 その、“愛”、の一文字ほしさに、人は、誰かを好きになったり、結婚して、家庭をもって、子供を産んで、(ついでに、家と、車と、大きいテレビがあれば、なおけっこう)、いつまでもいつまでも、家族一緒に、幸せに暮らすのよ、と、夢を思い描くのでしょう。

 

 

 けれども………

 

 

 

家族は不幸のはじまり

 

 

 さて、映画『メランコリア』に戻ります。

 

 職場の同僚、マイケルと結婚し、人生の中で、最高に幸せな時間を過ごすはずだったジャスティン。

 

 誰の目から見ても、彼女の人生は、輝きに満ちているようにしか見えなかったことでしょう。

 

 幸せな結婚と、豪華な披露宴。そして、(両親を除く)招待客たちの祝福と笑顔。

 

 それだけではありません。ジャスティンは、仕事の面でも、芸術的才能を活かし、輝かしい業績によって、招待客の一人である上司から、昇進を約束されていました。

 

 けれども、彼女の両親の“祝いの言葉”(呪いの言葉)が引き金となり、ついに、心のダムが決壊します。

 

 

 彼女は、会場からいなくなり、夜の闇の中で、一人、ゴルフカートを走らせたり、姉の息子を寝かしつけに行って、それっきり、自分も眠ってしまったり、これから新郎新婦揃ってケーキカットというときに、客室で風呂に入ったり、まるで迷い子のように、一人勝手にふらふらと、動き回ります。

 

 夫のマイケルは、ジャスティンの調子が良くないことに気づき、「二人きりで話したい」と言い、「りんご園の土地を買った、十年後には実がなる、気分が沈むことがあっても、りんごがきみを幸せにしてくれる」と、そのりんご園の写真を彼女に贈ります。

 ジャスティンは、表面上は喜び、「肌身離さずもっているわ」、と言いつつ、その写真も、マイケルもおきざりにして、部屋から出て行きます。

 

 自分が仕切っている披露宴で、身勝手な行動ばかり取る妹ジャスティンを、姉のクレアは責めます。

 「時々、あなたがたまらなく憎くなる」、と言って。

 

 人知れず、今にも底なし沼に落ちていかんとするジャスティンは、母に「こわいの」、と訴えますが、彼女は、「誰でもそうよ」、と冷たく突き放します。

 わらにもすがる思いで、今度は、帰ろうとする父を引きとめますが、結局彼は、二人のベティを送りがてら、ジャスティンをおいて、帰ってしまいます。

 しかも、彼が娘に残した手紙には、「愛する娘 ベティへ」と、(たとえ酔っていたにしても)、自分の娘の名前すら、正しく書かれていません。彼は、その手紙に記したとおり、“愚かな父親”なのです。

 

 

 

 フロイトによれば、「メランコリー(うつ病)は、心の状態としては、深い苦痛に満ちた不機嫌と外的世界への関心の撤去とによって、愛情能力の喪失によって、および何事の実行をも妨げる制止と自尊感情の引き下げとによって特徴づけられる」、と説明されています。(『喪とメランコリー』)

 

 「自尊感情の引き下げ」とは、自分は何の価値もない、恥ずべき存在であり、そのせいで、まわりの人にひどく迷惑をかけているという確信と、だから自分は罰せられるべきだという妄想に近いレベルの強い罪悪感をもっている、ということです。

 

 そして、その強い自己否定は、実は、「患者が愛している、あるいはかつて愛した、あるいは愛しているはずの別の人物に当てはめることができ」、「自己非難は愛情対象への非難がその対象から離れて患者本人へと転換されたもの」なのです。

 

 こうした心理的な傾向は、よく知られているように、生育環境、特に、生まれて初めての人間関係(それは象徴的には、世界そのものとの関係を意味します)であるところの、両親との関係の中で、形づくられていきます。

 

 

 従って、「患者が愛している、かつて愛していた、あるいは愛しているはずの別の人物」とは、多くの場合、両親のことを示します。

 

 

 ジャスティンに当てはめてみると、彼女が示した、他者から見れば「めちゃくちゃで」「自分勝手な」行動は、この晴れ晴れしい、光の当たる場所から自らをしめ出し、自分を罰するためのものなのですが、無意識的に、本当に罰したいのは、「かつて愛していた・愛しているはずの」父と母、ということになるでしょう。

 

 

                                《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『メランコリア』(1)

 

 

      “私の生まれた日は滅び失せよ。”                                                 

                    —『ヨブ記

 

 

「新しい朝が来た、希望の朝だ」……

 

 目覚めた瞬間から、さあ、大変。

 はるか彼方まで、ずらりと並んだ、数えきれないほどたくさんのハードル。

 今夜の眠りにたどりつくまで、いくつ、ちゃんと飛べるかな?

 

 まずは、布団から、身を引きはがすようにして、起床。

 それから、服を着て(えーっと、今日は何を着よう?)、顔を洗い、トイレに行って、食事の支度をしたら、ご飯を食べて、歯を磨いて。

 

 今日は、何曜日?あぁ、家庭ゴミの日だ!ゴミ出さなくちゃ。

 

 大変、もうこんな時間!

 「行ってきます」。

 

 バスが来た、さあ、乗って。

 どこで降りなくちゃならないか、わかるね? 

 居眠りなんかして、寝過ごしちゃだめだよ! 

 

 さあ、着いた。しなくちゃならないこと、山のごとし。

 勉強。仕事。雑用。

 必要なことも、そうでないことも。

 コミュニケーションも、とらなくちゃ。

 

 ようやく、ランチの時間。

 お腹がいっぱいになれば、目の皮がたるむ、とはよく言ったもの。

 眠いのをがまんして、午後もがんばらなくちゃ……。

 

 

 戦い終わって、日が暮れて。

 さあ、帰ろう。

 帰るのだって、ひと苦労。

 もう少し、もう少しだからね……。

 

 「ただいまー」。

 ああ、疲れた………

 顔でも洗って、食事の支度して、ご飯を食べて。

 今日は、テレビ、何か、おもしろいのやってるかな。

  

 それから、お風呂に入って、歯を磨いて、お布団敷いて、寝~ま~しょ。

  

 

 お・め・で・と・う!

 “ぱーん”と、クラッカー鳴らして、お祝いしても、いいくらいですよ。

 えらい、あんたはエライ!

 今日を生ききったじゃないか、えらい!

 さすがだねぇ!天才だねぇ!

 よくやった!よくがんばった!

 

 

 ……ところが、この世界では、そんなことで、誰もほめてくれません。

 あたりまえだろ、そんなの。

 誰も気にも留めないし、本人も、そんなことはよくわかっています。

 

 

 けれども、これがかなりすごいことなんだということは、病気になってはじめて、身にしみてわかるのかもしれません。

 

 身体の病はもちろんですが、心の病にかかっても。

 

 そして、『メランコリア』の主人公の一人、“ジャスティン”のもつ、ある心の病もまた……。

 

 

 

“地獄へ ようこそ”

 

 「メランコリア」、というのは、言わずもがなうつ病のことで、「ギリシア語のメライナmelainaまたはメランmelan(黒い)とコレchole(胆汁)の合成からなることでもわかるように、体液のなかで黒胆汁が過剰になる」病のことです。

 

 古代ギリシャ・ローマでは、ヒポクラテスやガレノスが、人間の体液を、粘液、血液、黒胆汁、胆汁(黄胆汁)の4種類に分け、それらが調和と均衡を保てれば健康、いずれかが過剰になると病気になり、メランコリアは、黒胆汁の過剰による病であり、憂鬱質、心配性、生真面目、内気で寡黙、消極的で不安が強いなどの傾向を引き起こす、と考えられていたのです。(参考『コトバンク』)

 

 

 さて、映画は、姉のクレアと妹のジャスティン、それぞれの立場から描かれています。

 

 最初は、妹のジャスティン。

 

 映画のタイトルどおり、彼女は、うつ病を患っています。

 けれども、今日は、職場の同僚マイケルとの結婚披露宴。

 しかも、お金持ちの学者と結婚した姉クレアの、ゴルフ場付き豪邸が会場です。

 

 ジャスティンは、純白のウェディングドレスに身を包み、夫マイケルとともに、豪華なリムジンに乗って、会場へと急ぎますが、田舎の細い道に、小回りのきかないリムジンでは、どんな名ドライバーでも、カーブをうまく曲がれません。

 

 それでもジャスティンは、幸せそうな笑みを浮かべ、時折、マイケルとキスを交わし、しまいには自分がリムジンを運転しますが、うまくいかず、途中で降りて、徒歩で会場へ。

 

 予定より、2時間も遅れての到着に、式を取り仕切るクレアの機嫌は悪く、はじめから、雲行きは怪しいのです。

 

 招待客は、それでも祝福ムードを盛り上げますが、その空気を壊し、花嫁の表情を暗く曇らせたのが、誰あろう、ジャスティンとクレアの、(離婚した)母親と父親なのです。

 

 父親は、どこか頼りなさげで、自分の両隣に座った若い女性で同名の、二人の“ベティ”に気に入られようと、テーブルのスプーンをくすねてみせたりして、おどけています。

 

 そしていざ、娘への、お祝いの言葉を求められると、「私の大切な娘よ」と、父親らしいことを言いつつも、自らの、悲惨だった結婚生活と、「威圧的な女だった」と、元妻への不満をもらしてしまいます。

 

 言われた元妻も、黙ってはいません。

 

 「いまのうち、せいぜいはしゃいでおくがいい(結婚なんて、地獄にすぎないのだから)」と、娘に向けて、言うのです。

 

 

 ほかでもない、自分たちの「大切な」娘の、人生最高の幸せの日に、この元夫婦は、これ以上はないというほどの、“呪いの言葉”を吐きかけ合ったのです。

 

 けれども、ジャスティンは、それでも笑みを浮かべ、この牛頭馬頭の責め苦に、何とか耐えます。

 

 

 ………ですが、傷つきやすく、繊細で、(おそらくは、うつ病寛解期にあった)ジャスティンの心が壊れるまでのカウントダウンは、誰も知らないうちに、だいぶ前からはじまっていたのです。

 

 

 

 

                                《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真夏の 葬列

 

 

       真夏の 日盛りに 葬列を 見た

 

       標本のように 完璧な セミの幼虫が 地を這っている

       と 思ったら

       それは 黒々とした 小さい蟻が 無数にたかって

       少しずつ 少しずつ すすんでいく そのさまであって

       きみの いのちは もう ないのだった

 

       大事な 大事な 食糧を

       蟻たちは

       そろり そろり

       ゆっくり ゆっくりと はこんでいく

 

       「食べること」は 「愛すること」だから

 

       すべて 残さず 丸ごと 食べて

       自分の ものに すること だから

 

 

       ねぇ ところで きみ

       世の中から 門前払いされた きみは

       何も 思いは しないのかい

 

       羽化への道は 厳しくて

       成功率も 低いそうじゃないか 

 

       落下して 力尽きて死んだ きみの すぐ上の木々

       みんな 騒々しく 鳴いているよ

  

       ああ 恋しい 恋しい

       愛しい 愛しい きみよ 

       ぼくを 愛してくれ 愛してくれ と

 

       一声も 鳴けなかった きみの 亡きがらの上で

       不謹慎にも くるおしく

       めくるめく 恋の快楽を 謳歌しているよ

 

 

       ねぇ きみ

       うらめしくは ないのかい

       にくくは ないのかい

       かなしくは ないのかい

 

 

       もし ぼくならば ぼくならば

       うらんで にくんで かなしんで

       この世なんて 滅んでしまえと

       願うかもしれない っていうのにさ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『シン・ウルトラマン』(4)

 

“裁定者 ゾーフィ”

 

 さて、『シン・ウルトラマン』では、物語を結末へ導く存在として、テレビ版でのウルトラ兄弟の長兄“ゾフィー”が、“ゾーフィ”、として登場します。

 

 “ゾーフィ”は、狡猾なメフィラス星人でさえ、「ヤバいやつが来た」と、ウルトラマンとの戦闘を途中で放棄して逃げ出すほど、ちょっとまがまがしい存在として現れます。

 

 ゾーフィは、人間と融合したウルトラマンの存在や、メフィラス星人の策謀によって、全宇宙に、人類が生物兵器になり得ることが知られてしまった以上、地球と人類を、「天体制圧用最終兵器」ゼットンによって消滅させざるを得ない、というおそろしい最後通告をするのです。

 

 地球人の味方をしてくれる、まるで神か仏のように慈愛に満ちたウルトラ兄弟、というイメージが、ひっくり返る瞬間、かもしれません。

 

 ですが………。

 

 そんな神か仏のような宇宙人が、どうしてこんな、宇宙の辺境にある、青い小さい星に住む人類なんかを、わざわざ守ってくれるんだろう?

 

 もともと、ウルトラマンは、宇宙人の立場からすると、裏切り者です。

 

 いわば、決して珍しくもない、雑魚のごとく、他にいくらでもいるような劣等生のなかの、たった一人の肩をもつ、学校でも憧れのまとの優等生、みたいな位置づけでしょうか。

 

 そして、地球人ときたら、ウルトラマンが味方についているのをいいことに、人類ほど間違ってもいないし、大して悪くもない怪獣や宇宙人を、片っ端から、ウルトラマンに処分させるのです。

 

 実際、第35話『怪獣墓場』で、ハヤタ隊員は、今まで倒した怪獣たちに、「許してくれ」、と謝っています。

 

 また何より、第23話『故郷は地球』では、地球人が宇宙開発のために送り出し、生死不明のまま救おうともしなかった宇宙飛行士ジャミラが、自分を見捨てた地球人への復讐のために、怪獣となって地球へやってきたところを、地球の平和を守るためとはいえ、葬り去らなければならなかったウルトラマンの心は、いったいどんなだったことでしょう。

 

 

 人類の味方=正義の味方となったことによる深い苦悩は、次作『ウルトラセブン』に引き継がれ、より丁寧に、物語全体を貫く底流となっています。

 

 たとえば、第14,15話『ウルトラ警備隊西へ 前後編』では、ワシントン基地から打ち上げられた観測用ロケットがペダン星に打ちこまれ、それを侵略行為だとして、地球へ復讐を仕掛けてきたペダン星人。(「先に手ェ出したの、そっちだかんね!」)

 

 第26話『超兵器R1号』では、地球が開発した惑星攻撃用ミサイルを、生物がいないものとして、ギエロン星に実験発射したところが、その放射能によって怪獣となってしまったギエロン星獣

 セブンと闘うギエロン星獣の、舞い散る羽根が、かなしみをあらわしているかのようでした。

 

 第42話『ノンマルトの使者』では、人類よりも先に地球で生きていた地球原人ノンマルトが、過去、人類によって海底に追われ、その海底までも、ノンマルトを滅ぼして手に入れ、ウルトラ警備隊隊長キリヤマは言い放ちます。

  「海底も我々のものた!」

 

 

 いったいどこまで人類びいきなのか、と、全宇宙人に批難されてもしかたがないくらい、ウルトラマンウルトラセブンも、人類の罪を、かわりにかぶってくれたのです。

 

 まるで、神の子イエス・キリストが、人類の罪を背負って、十字架にはりつけにされたように………

 

 

 

『神(シン)・ウルトラマン』?

 

 ところで、『風の谷のナウシカ』漫画版では、物語も終わりに近づく頃、“火の七日間”で世界を滅ぼした、巨神兵の最後の生き残りが、ナウシカを“ママ”と呼んで、慕います。

 そんな彼に、ナウシカは、“オーマ”(無垢という意味)という名を与えます。

 名前を与えられた途端、それまで赤子のようだった巨神兵“オーマ”は、急激に知性が発達し、こう言います。

 

  「ぼくは オーマ 調停者にして戦士……… そして 裁定者………」

 

 この巨神兵は、火の七日間で、ことごとく世界を焼き尽くし、人類を滅亡に追いやった化けもの、とされていますが、原作でも、はっきりとその正体は描かれていません。

 

 ナウシカは、こんなふうに、考えをめぐらせます。

 

 「わたし達は オーマの一族について 何も知らないんだわ 

  火の七日間で世界を亡ぼしたっていう伝説を きいてるだけ

  ただの兵器なら 知能は却って邪魔のはずだわ 

  この子には 人格さえ生まれはじめている

  大昔の人は 死神としてオーマ達をつくったんじゃないらしい……

  神さまとして…… まさか」

                      

 

 『シン・ウルトラマン』でのゾーフィの立ち位置というのは、オーマのような「裁定者」、裁きを行う者の役割を負っており、いわば神に近い存在、ということになるのでしょうか。

 

 神、というものが、いついかなる場合にも、全体と絶対の価値に照らしてものごとを判断し、誰も特別扱いせず、ときには冷淡冷酷な判断をくだすものであるとするならば、そうなのかもしれません。

 

 

 けれども、私は、遠藤周作の『沈黙』を思い出しました。

 

 「沈黙」、というのは、カクレキリシタンに対するあまりにも厳しく残酷な処刑や迫害がなされるのに、なぜ神は黙ってみておられるだけなのか、という意味でのタイトルなのだろうと思います。

 

 もしも、「神」、という存在がいるのなら、信者たちがこれほど苦しめられているのに黙って見過ごすはずがない、迫害をする側に対して、何らかの罰が、神のみわざとして下されるはずだ、ということなのでしょうか?

 

 

 私は、幼稚園から高校まで、ずっとミッションスクールでしたが、神の存在を信じることはできませんでした。

 

 

 たとえば神という存在がいるとして、もし、全宇宙とか、全体の利益にてらして、地球でも、その他の星でも、消滅をはかるとするのなら。

 それはあきらかに、作為の神でしょう。

 

 ……けれども、また。 

 

 どんなにおそろしいことが起きても、どんな悲劇が起きても、神はただ、黙って見守っているだけ。

 

 悪人を裁いたり、善人を救ったりすることもありません。

 (おや?きみは善人のつもりかい?)

 

 この世の悲しみも、苦しみも、あるがまま、あるがままと、もし微笑をうかべて見ている神がいるとしたら、正直、私には、解せませんし、憤りも感じます。

 

 ですが、浅はかな、ヒトの論理や道理ではかることのできない、それこそ人智を越えた存在があるとしても、文字どおり、人智を越えているのですから、理解できる日などきっと来ないのでしょう。

 

 

 

 『シン・ウルトラマン』は、ウルトラマンのコンセプトを活かしつつ、守りつつ、さらに新しいニュアンスの切り口を加えた、とても面白い作品でした。

 

 だからこそ、唯一絶対にして不滅、無敵の力をもつ神が、自分の味方であってくれたなら、(いや、そうであるべきはずだ)、という人間の欲望の、救いようのないほどの深さを思ったのです。

 

 こればかりは、いくら考えても、考えても、何といっても、人智を越えているのですから、答は永遠に、空の上なのですが………。

            

 

 

                                 《おわり》