他人の星

déraciné

『シン・ウルトラマン』(4)

 

“裁定者 ゾーフィ”

 

 さて、『シン・ウルトラマン』では、物語を結末へ導く存在として、テレビ版でのウルトラ兄弟の長兄“ゾフィー”が、“ゾーフィ”、として登場します。

 

 “ゾーフィ”は、狡猾なメフィラス星人でさえ、「ヤバいやつが来た」と、ウルトラマンとの戦闘を途中で放棄して逃げ出すほど、ちょっとまがまがしい存在として現れます。

 

 ゾーフィは、人間と融合したウルトラマンの存在や、メフィラス星人の策謀によって、全宇宙に、人類が生物兵器になり得ることが知られてしまった以上、地球と人類を、「天体制圧用最終兵器」ゼットンによって消滅させざるを得ない、というおそろしい最後通告をするのです。

 

 地球人の味方をしてくれる、まるで神か仏のように慈愛に満ちたウルトラ兄弟、というイメージが、ひっくり返る瞬間、かもしれません。

 

 ですが………。

 

 そんな神か仏のような宇宙人が、どうしてこんな、宇宙の辺境にある、青い小さい星に住む人類なんかを、わざわざ守ってくれるんだろう?

 

 もともと、ウルトラマンは、宇宙人の立場からすると、裏切り者です。

 

 いわば、決して珍しくもない、雑魚のごとく、他にいくらでもいるような劣等生のなかの、たった一人の肩をもつ、学校でも憧れのまとの優等生、みたいな位置づけでしょうか。

 

 そして、地球人ときたら、ウルトラマンが味方についているのをいいことに、人類ほど間違ってもいないし、大して悪くもない怪獣や宇宙人を、片っ端から、ウルトラマンに処分させるのです。

 

 実際、第35話『怪獣墓場』で、ハヤタ隊員は、今まで倒した怪獣たちに、「許してくれ」、と謝っています。

 

 また何より、第23話『故郷は地球』では、地球人が宇宙開発のために送り出し、生死不明のまま救おうともしなかった宇宙飛行士ジャミラが、自分を見捨てた地球人への復讐のために、怪獣となって地球へやってきたところを、地球の平和を守るためとはいえ、葬り去らなければならなかったウルトラマンの心は、いったいどんなだったことでしょう。

 

 

 人類の味方=正義の味方となったことによる深い苦悩は、次作『ウルトラセブン』に引き継がれ、より丁寧に、物語全体を貫く底流となっています。

 

 たとえば、第14,15話『ウルトラ警備隊西へ 前後編』では、ワシントン基地から打ち上げられた観測用ロケットがペダン星に打ちこまれ、それを侵略行為だとして、地球へ復讐を仕掛けてきたペダン星人。(「先に手ェ出したの、そっちだかんね!」)

 

 第26話『超兵器R1号』では、地球が開発した惑星攻撃用ミサイルを、生物がいないものとして、ギエロン星に実験発射したところが、その放射能によって怪獣となってしまったギエロン星獣

 セブンと闘うギエロン星獣の、舞い散る羽根が、かなしみをあらわしているかのようでした。

 

 第42話『ノンマルトの使者』では、人類よりも先に地球で生きていた地球原人ノンマルトが、過去、人類によって海底に追われ、その海底までも、ノンマルトを滅ぼして手に入れ、ウルトラ警備隊隊長キリヤマは言い放ちます。

  「海底も我々のものた!」

 

 

 いったいどこまで人類びいきなのか、と、全宇宙人に批難されてもしかたがないくらい、ウルトラマンウルトラセブンも、人類の罪を、かわりにかぶってくれたのです。

 

 まるで、神の子イエス・キリストが、人類の罪を背負って、十字架にはりつけにされたように………

 

 

 

『神(シン)・ウルトラマン』?

 

 ところで、『風の谷のナウシカ』漫画版では、物語も終わりに近づく頃、“火の七日間”で世界を滅ぼした、巨神兵の最後の生き残りが、ナウシカを“ママ”と呼んで、慕います。

 そんな彼に、ナウシカは、“オーマ”(無垢という意味)という名を与えます。

 名前を与えられた途端、それまで赤子のようだった巨神兵“オーマ”は、急激に知性が発達し、こう言います。

 

  「ぼくは オーマ 調停者にして戦士……… そして 裁定者………」

 

 この巨神兵は、火の七日間で、ことごとく世界を焼き尽くし、人類を滅亡に追いやった化けもの、とされていますが、原作でも、はっきりとその正体は描かれていません。

 

 ナウシカは、こんなふうに、考えをめぐらせます。

 

 「わたし達は オーマの一族について 何も知らないんだわ 

  火の七日間で世界を亡ぼしたっていう伝説を きいてるだけ

  ただの兵器なら 知能は却って邪魔のはずだわ 

  この子には 人格さえ生まれはじめている

  大昔の人は 死神としてオーマ達をつくったんじゃないらしい……

  神さまとして…… まさか」

                      

 

 『シン・ウルトラマン』でのゾーフィの立ち位置というのは、オーマのような「裁定者」、裁きを行う者の役割を負っており、いわば神に近い存在、ということになるのでしょうか。

 

 神、というものが、いついかなる場合にも、全体と絶対の価値に照らしてものごとを判断し、誰も特別扱いせず、ときには冷淡冷酷な判断をくだすものであるとするならば、そうなのかもしれません。

 

 

 けれども、私は、遠藤周作の『沈黙』を思い出しました。

 

 「沈黙」、というのは、カクレキリシタンに対するあまりにも厳しく残酷な処刑や迫害がなされるのに、なぜ神は黙ってみておられるだけなのか、という意味でのタイトルなのだろうと思います。

 

 もしも、「神」、という存在がいるのなら、信者たちがこれほど苦しめられているのに黙って見過ごすはずがない、迫害をする側に対して、何らかの罰が、神のみわざとして下されるはずだ、ということなのでしょうか?

 

 

 私は、幼稚園から高校まで、ずっとミッションスクールでしたが、神の存在を信じることはできませんでした。

 

 

 たとえば神という存在がいるとして、もし、全宇宙とか、全体の利益にてらして、地球でも、その他の星でも、消滅をはかるとするのなら。

 それはあきらかに、作為の神でしょう。

 

 ……けれども、また。 

 

 どんなにおそろしいことが起きても、どんな悲劇が起きても、神はただ、黙って見守っているだけ。

 

 悪人を裁いたり、善人を救ったりすることもありません。

 (おや?きみは善人のつもりかい?)

 

 この世の悲しみも、苦しみも、あるがまま、あるがままと、もし微笑をうかべて見ている神がいるとしたら、正直、私には、解せませんし、憤りも感じます。

 

 ですが、浅はかな、ヒトの論理や道理ではかることのできない、それこそ人智を越えた存在があるとしても、文字どおり、人智を越えているのですから、理解できる日などきっと来ないのでしょう。

 

 

 

 『シン・ウルトラマン』は、ウルトラマンのコンセプトを活かしつつ、守りつつ、さらに新しいニュアンスの切り口を加えた、とても面白い作品でした。

 

 だからこそ、唯一絶対にして不滅、無敵の力をもつ神が、自分の味方であってくれたなら、(いや、そうであるべきはずだ)、という人間の欲望の、救いようのないほどの深さを思ったのです。

 

 こればかりは、いくら考えても、考えても、何といっても、人智を越えているのですから、答は永遠に、空の上なのですが………。

            

 

 

                                 《おわり》