他人の星

déraciné

「大人とは、裏切られた青年の姿である。」(3)

 

 怒りや憎しみ、あるいは、悲しみや孤独などの、「ネガティブ」な感情を、善くないと決めつけ、たとえば、人を恨んだり、憎んだりしてはいけない、といわれることもありますが、本当にそうでしょうか。

 

 怒りも憎しみもなしに、かつて、自分が相手か、相手が自分かわからないくらい親しかった他人と、簡単に距離をおいたり、別れたりすることできるものなのでしょうか。

 

 怒りや憎しみは、感情の中でも大きなエネルギーを生み出すものであり、たとえば壁を蹴って、その勢いで飛び出すようなもので、自分の方から距離を取るには、どうしても、ネガティブな感情の力が必要なときがあるのではないかと、私は思うのです。

 

 でなければ、私たちが、これほど豊かな種類の感情をもっているはずがないのです。

 

 何しろ、「裏切られた」、と思うほどに、相手を信じ、期待していたのですから、無キズですむはずがありません。場合によっては、自分の一部を剥ぎ取られるような痛みを伴うこともあるでしょう。


 相手と自分が違う人間だという認識に至る過程として、たとえ一時でも、自分を被害者の立場において、相手に激しい怒りや憎しみを抱くのは、自然なことなのではないでしょうか。


 むしろ、そういうやり方でしか、踏ん切りがつかないこともあるというのが、人間として、現実的だと思うのです。

 

 怒りや憎しみのような激しい感情は、消費エネルギーが大きいだけに、あまり長続きはしません。

 そのあとを引き継ぐように出てくるのが、悲しみと孤独ではないのだろうかと思います。

 

 怒りと悲しみは、相貌特徴の異なる、とても仲の良い二卵性双生児のようだと、私は常日頃感じています。

 

 

 私が、おとなと子どもでそう違いはないのではないかと言ったのは、この点においてなのです。

 

 子どもは、孤独を知らないといわれることもありますが、私は、そうは思いません。 

 

 言葉や意識、記憶が未発達なだけで、子どもの方が、むしろ、本能的に、純粋に孤独に親しむことを知っているのではないかと思うのです。

 

 せっかく充実して孤独と向き合っているのに、「それではいけない」、「そういう子は、社会適応が難しくなる」と、急いで孤独から引きはがそうとしてしまうのが、いまもむかしも変わらない、人間社会の常なのではないでしょうか。

 

 人は、子どもの頃、生き別れになった孤独に、おとなになって、別なかたちで、再び出会うのではないかと思うのです。自分と未分化なものとしてなじんでいた孤独や寂しさに、今度は、少しだけまとまった記憶と、少しだけはっきりした意識をもって、再会するのではないでしょうか。

 

 ただし、そのとき、“孤独”は、すぐに親しげに接してくれるとは限らないでしょう。

 ずっと傍にいたにもかかわらず、放っておかれたせいで、少しよそよそしく、近づきがたい空気をまとっているかもしれません。

 

                             《(4)へ つづく》