「大人とは、裏切られた青年の姿である。」(4)
「…だから、向うの気が進まないのに、いくら私が汚辱を感ずるようなことがあっても、決して助力は頼めないのです。……或場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。」
相手にその気はないのに、自分と一緒に行動するよう強いることも、自分の考えや気持ちを共有させようとすることも、「裏切られた青年」には、もはやできません。
なぜなら、そのことによって、「見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎ」、また、「裏切られる」たびに生じる怒濤のような怒りと憎しみに振りまわされて、すっかり疲れてしまっているからです。
自分の感情を、たとえ都合の良くないものであっても、抑圧することなく認め、なおかつ、そこに相手を巻き込むまいとするには、相当のエネルギーを必要とすると思います。
いずれにしろ、こうして青年は、心の中に、いつしか、あきらめ(漱石は、この言葉を、明らめ、つまり、ものごとを明らかにする、明らかになる、という意味で使っています)にも似た静寂を宿すようになって、大人になるのかもしれません。
いくら寂しくても、人を強いることができないからこそ、「大人とは、侘びしいもの」なのですね。
このように考えると、大人になる、というのは、あまり愉快なことでも、特別に良いことでも、素晴らしいことでも何でもなく、子どものときから何となく感じていたことが「明らか」になって、ほら、やっぱりね、と、寂しい微笑を浮かべるイメージが、浮かんでくるように思います(夏目漱石の小説の中には、この「寂しい微笑」を浮かべる人物が、よく登場します)。
けれども、それで片がつくかというと、そうでもないようなのです。
「なあんだ、そうか。早く言えばいいのに」
私たちには、まだ、たわいない少年の部分も残っていた。
もとは、主人と使用人の関係だった太宰と「T君」の関係は、太宰が“大人の侘びしさ”を感じた次の瞬間、まるで気まぐれな日ざしのように、もとの子どもらしく打ち解けた雰囲気が戻ってきます。
「裏切られた」、と思い、相手のせいだ、と思って蹴り飛ばし、遠ざかって寂しくなり、またそろりそろりと近づいて、期待し、信頼し、自分と相手が違う人間だということを忘れるほど近づいた頃、また、「裏切られ」て、距離を取る。
人間は、そういうまわりくどいことを、命と人間関係とが続く限り、性懲りもなく繰り返す生きものなのかもしれません。
だから、苦しいのでしょうね。
《おわり》