他人の星

déraciné

『カッコーの巣の上で』 (1)

 いわずもがなの名作ですが、最近、ようやく、DVDで初めて見ました。


 すでにあらすじを知っていたので、この映画は、少し、気持ちに余裕があるときか、あるいは、映画という別の現実に没頭したいときに限られるな、と思っていたからです。


 今回、後者の理由により、鑑賞に至った次第でした。

 

 (※以下、ネタバレを含みますので、ご注意ください。)

 

「自由」の意味

 主人公マクマーフィが、犯罪者に課せられた労働義務を怠り、精神病院へ送られてきたところから、話が展開していきます。


 純粋な好奇心と機知、それに無邪気さをあわせもつマクマーフィの言動が刺激となって、病院内の空気が変わっていくのですが、撰ばれしものがスーパーヒーローのように世界を救う、というような、ありがちなはしゃいだ雰囲気はなく、場面には、常に静謐さが漂っていたのが印象的でした。


 たとえば、夫婦関係を通して、真剣に人生に悩むハーディング、恋愛の問題で悩んでいるものの、実はその背景にもっと深刻な母親の問題(察するに、過保護過干渉、束縛)があるらしいビリー、そして、背の高いネイティブアメリカン聴覚障害者(のちに彼の演技だとわかりますが)チーフなど、それぞれに個性的な患者たちが登場しますが、なかでも、映画の要となるラチェット婦長は、格別、不気味なリアリティを醸し出していました。


 なぜなら、彼女の存在そのものが、人間社会の現実、そのものを表しているからだと思います。

 

 彼女にとっては、病院内の秩序が保たれ、一日が時間どおりに決められた順序で、規則正しく進められていくことが何より守られるべきことであるので、秩序を乱す人間は、反社会分子でしかないのです。

 つまり、病院という社会の中にあって、何が善で、何が悪かを決めているのが、婦長ラチェットであり、彼女は、こわばって柔軟性を失った秩序と権威の象徴といえるでしょう。


 また、マクマーフィは、自らに課せられた更正義務不履行による強制入院患者であり、病院側の許可がないと退院できません。 

 それに対して、彼のまわりの患者の多くは、自らすすんで入院してきた任意入院患者であり、退院請求できる身であるにもかかわらず、入院し続けています。 

 彼らの場合、病院内の秩序に守られることと引き替えに、ある程度の束縛を甘受することで、傷つきを最小限度に抑えており、マクマーフィとは別の現実を抱えているのです。

 病院の外の社会でうまく生きられなかった結果、病院の中へ逃げ込まざるを得なかった、それぞれ異なる事情があるのです。


 自由を愛するマクマーフィの立場からすれば、「退院できるのに、なぜこんな窮屈な場所に、わざわざ好き好んでとどまっているんだ」、と主張してもおかしくありませんが、彼は、疑問こそ感じても、決して、相手に自分の考えを押しつけたりはしません。

 

 そうした意味で、主人公マクマーフィが現しているのは、自らに自由を許すとともに、相手にもまた自由を与える、「大きな男」、真の意味での自由を愛する者の姿ではないかと、私は思ったのです。

 

                             《(2)へ つづく》