他人の星

déraciné

人間、好きですか (3)

 あるものを、「好きだ」とか、「嫌いだ」とかいうのは、単なる好みの問題や、感情判断であって、それ以上のものでも、それ以下のものでもなく、快不快もまた同様です。

 つまり、善や悪などの絶対的価値判断とは分けて考えられるべきものです。

 ところが、その、単なる好き嫌いの問題が、いつの間にか善悪にすり替わり、すべてが「善い」「悪い」、あるいは、「望ましい」「望ましくない」、という考え方で切り捨てられてしまうことが、意外と多いのではないかと感じます。


 たとえば、人間を好きだとか、嫌いだとかいうことも、個人の単なる好みの問題であるはずが、「人間が好きだ」というと、それは人間として「善い」「望ましい」姿、「人間が嫌いだ」というと、それは人間として「悪い」「望ましくない」姿だとイメージされてしまうのは、いったいなぜなのでしょうか。


 こうしたことは、「人間として」のみならず、性別、年齢、人種など、様々なカテゴリーにおいてよく起こることで、「善い」「悪い」ではなくて、単なる好き嫌いの違いや趣味好みの違いで仲違いしたり、関係がぎくしゃくすることがよくあります。

 

 かくいう私自身も、たかが好き嫌いの問題で、頭が熱くなってしまうことがよくあるにもかかわらず、うまく説明することができないでいるのです。

 

 振り返ってみて、一つ、思い当たるのは、「自信のなさ」であるような気もします。

 

 フロイトが解き明かした人間の心の構造から見れば、そもそも人間とは、「自信がない」ことを前提としている生きものです。

 

 それもそのはずです。

 

 私たちが、依って立っている価値観は、絶対的な「善」の象徴である「神」から譲り受けたものなどでは決してなく、私たちが、成長の過程で、この世を生きるために周囲から刷り込まれたものにすぎません。

 

 それらを、全部、剥ぎ取ったら、何が残るのでしょうか。

 

 何ももたない、「寄る辺ない」、赤肌の、孤独な生きもの、でしょうか。

 

 人間が好きだ、といって、それで何も問題はないのなら、人間が嫌いだ、といっても同様に、それで何も問題もないはずです。

 

 それは、人間というものを、どのようなイメージとしてとらえているかの違いかもしれません。
 

 人は、人を癒すこともありますが、当然、傷つけることもあります。

 ある側面では、「得体の知れない」魑魅魍魎を抱えていて、いったい何をしでかすかわからない、まったくの謎と闇、ブラックボックスの部分は、誰にでもあるわけです。

 

 同時に、そうしたものの匂いを嗅ぎつけると、多くの人は、そこに何か病的なものを読みとったり、「不気味」、「こわい」と尻込みしたりもします。

 

 それは、人間が原始的にもっている、見知らぬものから身を守ろうとする防衛本能からであって、おかしなものでも恥ずべきものでもありません。

 

 だからこそ、私たちは、「安心」を手に入れるために、フロイトが指摘したような、性的なものや攻撃性を含む、人間のわけのわからなさを、近代化の過程で、見えない場所へと、どんどん無意識下へと、抑圧するようになってきたのだと思います。

 

 けれども、はたしてそれで、私たちは、安心を得たのでしょうか。
 

 私は、むしろ、“得体の知れない”不安が、割れたガラスか何かのように、あちこちに飛散し、思いがけないときに思いがけない場所で、体のどこかを切って、その痛みに驚くことが増えたような気がするのです。

 

 「人格は統一体だという錯覚を打破して、自分は多くの部分からできており、たくさんの我の束だと感じたとしたら、彼らがそれを口に出すやいなや、多数を占める人々は彼らを監禁し、科学に助けを求め、精神分裂病と確認し、こんな不幸な人間たちの口から真理の叫びを聞かされることのないように、人類を保護するのである。」

                   ヘッセ 『荒野のおおかみ新潮文庫 p71

 

 「こうして、異常という名で、すべての反秩序的な精神も行動も、病院の中に押し込められ、社会には、病院くさい秩序と清潔さが回復されるというわけでしょう。」

             なだいなだ 『人間、この非人間的なもの』ちくま文庫 p231

 

 

 「私は一つ」、「相手も一つ」という幻想は、もはや去ってはくれません。


 もし、人として生まれ、まがりなりにも、人として生きてきたにもかかわらず、ある日、「異常」と切り捨てられ、誰も、何を言っても信じてくれないとしたら、それはどんなにかおそろしいことでしょう。


 そうした事態と、人間の社会とがまるっきり無縁でないことは、人類の歴史が証明しています。

 

 だからこそ、人間的とか、人間性とかいうものに、私は、自由、という名の、ゆるさといい加減さが、もう少しあってほしい、と思うのです。

 

 私は、人間を好きではありません。自分も含めて、「人間」というもの、それにまつわる体験や記憶が、おそれや悲しみ、怒りなど、負の感情に彩られているからでしょうか。


 負の感情は、不快で、不安をもたらすものですが、だからといって、悪いものだとは思いません。自分の中から、自然に湧いて出てきたものであるのなら、ゆがめたくない、という気持ちが強いからです。

 

 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」

                    太宰治 『ヴィヨンの妻新潮文庫 p122

 

 その人がその人である限り、とか、“人でなし”でない限り、ではなくて、はじめから「人非人」といい、「生きていさえすればいい」といってくれるこの言葉が、とても好きです。


 頭の片隅においておき、思い出すたびに、ほっとするような言葉が、ときに、生きている人間よりも、強い味方になってくれることがあるのを、私は、とても心強く思っているのです。

 

                                                                                                                   《おわり》