他人の星

déraciné

『カッコーの巣の上で』 (2)

「自覚あるさびしがりや」

  劇中を通して、マクマーフィは、何かと他人にちょっかいを出したり、頼まれなくても世話を焼いたりします。

 無視ではなく、共感か、さもなくば反発か、つまり、人間関係から何らかの反応と刺激を欲する彼は、大多数の人間と同様、“さびしがりや”なのでしょう。

 マクマーフィは、表面的には、「何かしてあげたい」、「喜ばせたい」、「楽しませたい」という欲求をもって、他者とのかかわりへと動くわけですが、それは他人のためなどではなく、そうすることによって自分が「楽しみたい」という気持ちに、自覚的なのではないかと思います。


 同じさびしがりやでも、「自覚あるさびしがりや」と、「自覚なきさびしがりや」とでは、他人とのかかわり方が大きく違ってきます。


 自分の傍で、他人が自由に楽しむさまを見ていたい、それによって、自分も楽しみたいマクマーフィは、それゆえ、どんな窮屈さも嫌います。

 

 それに対して、自分のいうことをきく他人しか欲しないのは、婦長ラチェットであり、彼女は、この点でも、マクマーフィとの好対照をなしているのです。

 

 つまり彼女は、「自覚なきさびしがりや」といえるのかもしれません。


 彼女は、「一人でいると不健康になる」からと、日中、患者が戻らないよう病室に鍵をかけたり、悩みの核を話したがらないビリーに対して、「打ち明けなければ治療にならない」、と、追い詰めるようなことを平気で押しつけます。

 

 実際、そのために、映画終盤で、悲劇的なことが起きてしまいます。

 

 つまり、彼女もまた、彼女なりの方法で他者と関わっているのですが、それらはすべて、他人のためであり、病的な人間を「救う」ためとかたく信じているので、本来、おかしてはならない他人の心の領域にまで、無自覚に侵入し、心を踏みにじったり傷つけたりしても、それに気がつかないでいるのです。
 

 そして、彼女の言動や雰囲気が伝えてくるのは、「病人は病人らしくしていろ」、という権威者のメッセージです。

 

 彼女が、病人が、明るく元気になるのを好まないのは、管理しづらくなって都合が悪い、ということだけではないようでした。

 もっと、説明のつかない、感情的かつ生理的な匂いのする問題、すなわち、憎悪である、というニュアンスを漂わせるのです。

 
 彼女は、病院内で最も重症の患者のように、終始、能面のように無表情で無感情です。

 患者たちの騒ぎのせいで、自分の純白のナースキャップが汚れたのを見ても、怒りの表情さえ浮かべませんし、声を荒げることもありません。


 そんな彼女にとって、トゲと輝きのある感情を露わにするマクマーフィなど、囲い込んで調教し、従順さと行儀を叩き込んでやらなければならない、治療すべきあわれな存在以外の何ものでもないのでしょう。

 

                             《(3)へ つづく》