そのとき、姫の心にあったのは、あのなつかしいオオワシのことだけでした。
姫の願いは、ただ一つでした。もう一度、あのオオワシに会いたい、そうして、そのそばで、何も考えずに眠りたい、それだけでした。
そうなのです。姫にとって、自らおもむくべき場所は、愛しいオオワシと出会った、あの森の古井戸しかありませんでした。
姫は、疲れた足どりで、城からの一本道を下り、村を通り抜け、森の泉のほとりにたどりつきました。
そして、古井戸の淵にたたずみ、はるかに深く、遠い井戸の底を、じっとみつめました。
そこには、何の音も気配もしませんでした。あのオオワシは、姫を助けるために、命を落としてしまったのに違いありませんでした。
オオワシが、傷ついた翼に自分を乗せ、井戸の外まで運んでくれたのは、つい数日前のことでした。
それなのに、あれからもう何十年ものときが立ってしまったかのように感じられました。その間、なんとさまざまなできごとが、姫をおそったことでしょう。
姫の心は、どうしようもなくかなしい気持ちでいっぱいでした。
自らの思いを伝えようと、精一杯の勇気を出したのに、父も母も、姫の言葉を、信じてはくれなかったのです。
それに、自分だけが唯一の、この国に対して責任をもつべき存在であると信じていたのが、それも違いました。
父は、不義をおかしていたのです。そうして何より、父や母にとって必要なのは、本当の姫である自分ではありませんでした。いまや、あの偽者の姫こそが、父と母にとって、本当の娘のように、大切な存在になっていたのです。
そのとき、姫をつけてきていた男が、ついに、姫の前に姿を現しました。その者は、手に長い剣を持って、姫の心臓を貫こうと、近づいてきたのです。
しかし姫は、その少し前に、心を決めていました。
次の瞬間、姫は、ためらうことなく、古井戸の中に、身をおどらせました。
姫のからだは、あのとき、オオワシが落ちていったのと同じように、闇の中を、真っ直ぐに、落ちていきました。
あとには、何の物音もなく、あたりはしんと静まりかえるばかりでした。
若い側近は、偽の姫の言いつけどおりに、自らの手で魔物を殺すことができなかったことを、とても残念に思いました。
そこで、戻ってから、偽の姫を喜ばせたい一心で、多少の脚色をほどこして、この顛末について報告しました。
自らの剣が、確実に魔物の心臓を貫いたことを証明するために、森でみつけた小さな動物を殺して、剣の先に血を塗り、それを見せました。
すると、偽の姫は、たいそう満足し、この若い男を、さらに特別に取り立ててやりました。
それからのち、その国はどうなったのでしょうか。
本当の姫の消息がわからなくなってから、半月も立たないうちに、偽者の姫と隣国の末王子の婚礼の儀が、華やかに執りおこなわれました。
そののち数年間は、国は、まるで伏せられた真実のように、上辺だけの、派手な繁栄に恵まれました。
しかしその後、はっきりした理由もなく衰退しはじめたかと思うと、いつの間にか、すっかり滅びてしまったのでした。
それについては、こんな逸話が残っています。
あのいまわしい森の古井戸を、取り壊してしまうようにとの命令を受けて、お城の家来たちが、井戸のふちに、つるはしを振りおろしたとたん、突然、古井戸の中から、どうどうと、大きな音を立てて太い水柱が噴きあがり、それが、あっという間に怒濤のような流れとなって、ついには、国全体を飲み込んでしまったというのです。
あるいはまた、姫が身投げした古井戸から、二羽の立派で美しいオオワシが飛び立つのを見た、という者もいます。
しかし、何と言ってもいまはむかし、その国が失われてから、もうずいぶん長い時間が立ってしまったので、事実がどうであったのか、それを知る者は、誰もいないということです。
《おわり》