物が散乱し、誰もいない、静まりかえった不気味な病院を、伊吹は、輝夫少年をさがして走ります。
そしてついに、霊安室で、ランドセルに似せた、怪しげな機械を操る輝夫をみつけ、彼の攻撃をかわし、撃ち殺します。
輝夫は、あどけない少年の顔のまま、撃たれたあごをおさえ、伊吹の方へ、よろよろと歩み寄ります。手についた血が、安置されている遺体にかけられた、真っ白い布を、汚していきます。
撃ったのは、本当に宇宙人だったのか、それとも、純真な子どもを、それも障害児を、誤って撃ってしまったのか……。
目の前で倒れた少年の顔は、果たして、郷の言うとおりの、ゼラン星人の、いかにも邪悪な顔が現れます。
ウルトラマンは、呪縛を解かれたブレスレットを手にし、ことなきを得ます。
「パパ」
美奈子は、教会から出ると、父親の姿をみつけ、天使のような笑顔でひらひらと手を振り、長い髪を揺らしながら走ってきます。
「僕なら、あの少年は遠い外国に行ったと言いますね。お嬢さんの心を傷つけないためにも」
郷の言葉に、伊吹は、こんなふうに返します。
「きみがそう言ってくれるのはありがたいが、やはり、事実を話すつもりだ。人間の子は人間さ。天使を夢見させてはいかんよ」
このあと、伊吹は、父親として、最大の勇気を振り絞ることになるのでしょう。
その真実が、娘の笑顔をくもらせることは必至で、それだけなく、自ら善意で少年に尽くしていた美奈子の、これから先の、人間や他者への信頼、(あるいは、「障害」をもつ少年、というカテゴリーにすら)、もしかしたら、大きな影を落とすことになるかもしれません。
誰も自分をだましたり、利用したりするものなど、この世にいるはずがない、という無邪気さを、彼女は去らなければならないのです。
あるいは、少年が悪い宇宙人だったとは、にわかに信じることができず、それを撃ち殺したという父親との関係にも、深い溝ができるかもしれません。
一度、「親」という役割を担うことになれば、本来、正邪あわせもつ混沌たる人間を去り、精一杯の「正しさ」でもってお手本となり、子どもを導かなければならないというのが、親役割の過酷さなのだろうと思います。
社会に対する責任として、手塩にかけて育てあげた子どもは、親自身にとっても、自分の「正しさ」を、世の中へ向かって証明してくれる存在となりうるのでしょう。
一人の人間の中には、様々な役割の顔をもつ何人もの自分が存在します。
たとえば伊吹なら、「大人」としての自分、「男性」としての自分、「MATの隊長」としての自分、「夫」としての自分、「父親」としての自分、などです。
それらの役割が、適切な場所と状況において顔を出すことができるよう、自分を体系化し、制御することが、いわゆる自我同一性(アイデンティティ)の確立を意味します。
ですが、自分の中でいま、優先するべきはどの役割なのか、きちんと理解し、自らに課せられた役目を果たすのは、実際、大変に困難なことだと思います。
伊吹には、それができたのです。
ウルトラマンの危機を見て、父親から、MATの隊長へと役割を換えることができたおかげで、ウルトラマンは助かったのです。
これが現実なら、どうだったのでしょうか。
水が、高いところから低いところへ流れるように、人間もまた、たとえそれが誤りであっても、より“快”を感じさせてくれる役割にとらわれ、溺れる傾向があるのではないでしょうか。
だとしたら、美奈子の善意の象徴である障害児の少年に襲いかかる郷の言い分など、伊吹だけでなく、周囲にも到底受け入れられず、ウルトラマンは、きっと助からなかっただろう、と、私は思ったのです。
つまり、物語よりも、現実はもっと残酷なのです。
人間は、天使ばかりか、悪魔にもなりきれない、どっちつかずの中途半端な存在です。
何かをして、それが周りからほめられたりすれば気をよくして、また同じような状況下で、同じようなことをしようとするでしょう。それが「善」とされることでも、「悪」とされることでも、それが周囲から注目を浴びる結果になれば、快刺激となって、それをやり続けようとするのでしょう。
けれども、人間は、いつもどこか気まぐれで、いい加減なので、何かの役割を決めて、常に真剣深刻にそれに向き合い、役割を全うするなどということはできないのです。
おとなでも子どもでも、みな同じように穴だらけで、隙だらけで、天使でもなく、悪魔でもなく、ふわふわと、風次第でゆらぐ気持ちや意思に、自ら翻弄されながら生きているのが、人間というものなのではないでしょうか。
《おわり》