他人の星

déraciné

私が 殺してしまった いのち

 

 インコ、金魚、にわとり(ひよこ)、うさぎ、犬。

 

 子どもの頃から、家で飼った生きものです。

 

 インコは、つがいで飼っていましたが、ある日、二匹で巣箱に入ったっきり、出てこなくなりました。

 「もしかしたら、卵を温めているのかもしれないよ」と母が言い、それなら邪魔をしない方がいいだろうと、何日かそっとしておきましたが、二匹とも、いっこうに出てくるようすがありませんでした。

 それで、巣箱を開けてみたところ、孵らない卵と、つがいのインコが、寄り添うようにして、死んでいたのです。

 

 そのとき、私はまだ、6歳か、7歳くらいだったと思います。

 

 「何か、病気になったのかもしれない」と、母は言いましたが、私は今でも、あの、巣箱の中で寄り添っていたオスとメスのインコの姿が、忘れられません。

 

 けれども、最初に大きな衝撃を受けたのは、うさぎが死んだときでした。

 

 しかも、私のせいで、死んでしまったのです。

 

 テーブルうさぎという、あまり大きくならないうさぎの、メスでした。

 

 ふだんは、とてもおとなしいのですが、庭に放したりすると、うれしさを全身で表現するように、ハイ・ジャンプをしてみせます。

 一度、父が間違って落としたときは、とても痛かったのでしょう、キィー、キィーと鳴きました。

 

 うさぎは、感情がわかりにくかったり、なつかないと言われますが、そんなことはなく、撫でていると、犬の「伏せ」のときのように腹を下につけて、いつまでもじっとしていました。

 家の中で放して、つかまえようとすると逃げ、手をすり抜けるようにして、巣箱から出たり入ったりを繰り返して、まるでこちらをからかっているみたいで、とても愉快でした。

 

 真っ白い背中を丸くして、女の子が長い髪の毛をいじるように、耳を手でなでつけるようすも、かわいいものでした。

 

 真っ赤で、まん丸の丸い目も、おしりの下からのぞく白くて丸いしっぽも、何もかもが愛らしくて、私はつい、度を超して、「かわいがって」しまったのだと思います。

 

 ある寒い冬の日、私は何も思わずに、うさぎの体を洗ってあげようと思ったのです。

 お風呂場で、きれいにして、タオルで水気を拭き取って、いつものように、巣箱に戻しました。

 どのくらい時間が経ったのでしょう。

 

 冷え込んで、雪が降ってきました。

 

 外に置いてある巣箱を何気なく見ると、うさぎは、まるで凍ってしまったように、動けない状態でした。

 大変だ、と思い、抱き上げて、ストーブの前で懸命に体をさすりましたが、そのまま、私の膝の上で、死んでしまいました。

 

 心臓の鼓動が止まり、力なく、瞼が半開きになったのを見て、私は、一瞬、何がどうなったのか、わかりませんでした。

 

 けれども、事態がわかるにつれて、悲しみとショックが押し寄せてきて、声をあげて泣きました。

 

 私はそのとき、12歳前後だったと思いますが、自分のしたことと、うさぎの死の因果関係を理解するには十分でした。

 

 知識がなかったとはいえ、自分のせいで、この上なく愛おしかった存在を、死なせてしまった後悔と、悲しみと、寂しさと、どうにもならない思いとで、三日三晩、泣き続けました。

 

 庭先に埋めるとき、手紙を書いて、それも一緒に埋めましたが、何を書いたかは覚えていません。

 

 

 「死なせてしまった」ことと、「殺してしまった」こととの間には、どのくらいの距離があるのでしょう?

 

 積極的に、“殺す”つもりはなくとも、あるいは、まさか自分が、そこに加担しているとは気がつかなくとも、実は、こうしたことは、意外とたくさん起きているのではないのだろうかと、思ってみたりもするのです。