他人の星

déraciné

帰ってきたウルトラマン『悪魔と天使の間に……』(2)

「人間」と「親」の間で……

 

 MATの隊長であると同時に、父親でもある伊吹は、口のきけない少年と「友だちになってやろうとつとめている」こと、それを娘の優しさや善意だと受けとめ、親として、踏みにじることはできない、と言います。

 「何ごとにも汚されない美しい友情。それが子どもたちの現実だよ」

 

 あどけない娘の表情をくもらせ、まるで、美しい花を踏みにじるような気分の悪さを味わうくらいなら、伊吹は、娘の現実を「きれいなままに」しておくために、偽善者になることすら、いとわないのかもしれません。

 他の人間がどうであっても、人間社会の現実がいかなるものであっても、自分の子どもには、しみ一つない、まっさらな存在であり続けてほしいというのは、子どものため、というよりは、親の希望であり、願いなのだと思います。

 


 そして、郷は、次は病院の近くに怪獣プルーマを出現させると少年に告げられ、またも、もの言わぬ少年の首を絞めようとします。

 

 「宇宙人だと白状させようとしたのか」、と厳しく問われた隊長に、郷は、「殺すつもりでした」と応えます。

 

 おそらく周囲は、郷の精神を疑うでしょう。実際、伊吹は、郷の精神鑑定すら考えます。

 ですが、他の隊員たちは、「郷の精神は正常だ」と訴え、伊吹も「わかっている」と言うのです。

 

 もし、これが現実であったら、どうなるのでしょう。

 テレパシーを使う宇宙人だなどとは到底思えない、障害をもつ少年につかみかかり、「殺す」と言う大人を、「彼の精神は正常だ」、と言ってくれる人は、果たして、いるのでしょうか。

 

 

 また、伊吹は、こう言います。

 

 「私はあの子を、何かの偏見で他人をだましたり、疑ったり、差別したりするような人間には育てたくないんだ」

 

 ですが、差別や偏見は、ものごとに効率的かつ効果的に対処するために、区別したり分類したり、優先順位をつけたりする人間の能力と、裏腹のものです。 

 人間の社会に生まれた以上、駆け引きやだまし合い、他者への疑いや不信と無関係に生きていくことは不可能でしょう。

  そうした意味で、伊吹の父親としての“闘い”は、はじめから“四面楚歌”で、負け戦なのです。

 

 それでもなお、少年は危険な宇宙人だからお嬢さんに近づけてはいけない、という郷に、隊長は、郷の方こそ、宇宙人だという気がしている、と言い放ちます。

 

 自分に理解できないものに「宇宙人」、というレッテルを貼り付け、不快と差別をあらわにした伊吹は、その言葉をもって、彼自身、生まれたときからずっと、人間社会の空気を吸い、そこに順応して生きてきた、他でもない、“人間”であることを、自ら露呈してしまっているのです。

 

 自分にはできなかったことを、子どもに期待する親の身勝手さと、ある意味での無邪気さが、のちにどんな帰結をもたらすことになるのか、そして、「いま、ここ」で、「よかれ」と思ってすることが、先々どんな影響を及ぼすことになるのかなど、誰にもわかりはしないでしょう。

 

 

                             《(3)》へ つづく