他人の星

déraciné

『バットマン ダークナイトライジング』(1)

物語と生きる

 

 どちらかというと、暗い物語の方が好きです。

 どこかもの悲しいような、胸苦しさを感じたり、最終的に希望は残っても、それは、はるか遠くに針穴ほどの光が見え隠れするような、そういう映画の方を、よく見ます。

 

 現実の世界では、様々な出来事に付随して感じる喜怒哀楽を、素直に、ありのままに表現するのは難しいと感じます。

 人間関係や、状況、空気や雰囲気、利害関係、その後への影響、いろいろなものが足もとに絡みついていて、嬉しくなくても、楽しくなくても、『ダークナイト』のジョーカーのように、笑顔でいなければならないこともたくさんあります。

 『ダークナイト』の世界は、暗澹としているにもかかわらず、どこかなつかしいような、居心地の良さを感じたのは、そのためかもしれません。

 

 映画などの物語の世界は、現実の世界を離れて深呼吸できる場所であり、また、現実の世界よりもどこか“マシ”であったり、現実世界ではとても出会えないような「腹心の友」や、「理想の恋人」にも出会える場所だといえるでしょう。

 

 たとえば“ジョーカー”のように、映画の世界の中では極悪人であっても、どこかむかしからよく知っている友人のような好意やなつかしさを感じ、現実世界のどんな人間よりも親しみを感じることがあっても、少しも不思議ではないのだと思います。

 

 人間には、人間ではない生きものやもの、架空や想像上の人物を通してしか、癒しや救いが得られないこともあるのではないのでしょうか。

 

 誰もが、様々な意味での“物語”を欲するのは、そのためなのだと思うのです。

 

 日常のごく些細なできごとから人間関係、あるいは、自らについて語るときにも、それがまがりなりにも「物語」になっていると語る人も聞く人も安心し、そうなっていない場合には、不安や不満を感じるのではないでしょうか。

 

 ある意味、人間の、“困ったクセ”のようなものかもしれません。

 

 

 

影あるヒーロー

 

 私が、クリストファー・ノーラン監督のバットマン3部作を好きなのも、決して明るい話ではないからです。

 

 クリスチャン・ベール演じるブルース・ウェインは、大富豪の御曹司らしい上品な微笑こそ見せますが、満面の笑みを浮かべたことがありません。

 自分の臆病さのせいで、両親を殺された、ということが大きなトラウマになり、ブルースは、その後、「人はなぜ落ちると思う?這い上がるためだ」、という父の言葉を胸に刻み、生きていきます。

 彼は、せめてもの償いのように、その言葉どおりに生きようとし、そうなれない自分には、生きる価値を見いだせなかったのではないのでしょうか。


 彼が、父の息のかかったゴッサム・シティ(いわば、父そのもの)から離れるのは、悲しみや苦しみをもち、弱さを克服しようとしたときだけでした。
 それが、ラーズ・アル・グールのもとでの修行でした。

 そして彼は、コウモリ恐怖症を克服し、闇夜のコスチュームに身を包んで、バットマンになります。

 

 バットマンは、全身を黒で包んでいますが、黒は、死者を弔う“喪”の色です。

 

 ところが、ラーズ・アル・グールが、ゴッサム・シティを破滅させようとしているのを知り、これを阻止するために、もとは“師”であった彼を、崩れゆくモノレールの中におきざりにします。間接的には、バットマンが、彼を殺したことになります。(『ビギニング』)

 

 そうして、第2作目、ある意味異色の『ダークナイト』をはさみ、再びこの対立の構図が戻ってくるのが、第3作目の『ダークナイトライジング』です。

 

 ブルースは、足を引きずり、杖をついた姿で現れます。表情には、翳りと疲れが漂っています。

 長年彼に仕えた執事、アルフレッドは、どんなことになってもブルースを決して見捨てないと言いましたが、何かにとりつかれたように、“バットマン”に戻ろうとするブルースに不安とおそれ”―死の影―を感じて、出ていってしまうのです。


 身体だけでなく、精神的にも“満身創痍”、限界であり、もし再びバットマンとなって戦えば、“死”は目に見えていたのだと思います。

 幼なじみで、思いを寄せていたレイチェルは死に、アルフレッドは、レイチェルがデントを選んでいたこと、その手紙を燃やしたことを打ち明け、ブルースの失恋は決定的になります。


 ブルースは、広い屋敷に、とうとう、一人きりになってしまったのです。

 

                             《(2)へ つづく》