他人の星

déraciné

『ウィンド・リバー』(2)※ネタバレあり

現実の痛みに満ちた映画

 

 私が、この映画の世界を、「現実世界と地続きの悪夢」だと感じたのは、物語が、事実に則してつくられているからではありません。

 「ネイティブアメリカンと白人の間」だけの問題ではないからです。

 人間のいるところなら、世界中どこでも、私自身もそこへ確実に巻き込まれて生きている、残酷な現実として、いつでもすぐそばにある問題だからです。

 

 社会学者のゴフマンは、『スティグマ社会学』で、こう述べています。

 

 「社会はスティグマのある人を排除しようとする。人生の途中でスティグマをもった人は、一方では、スティグマ以前の排除する側の気持ちをもち、もう一方では排除にさらされる。この両価的感情のため、自分よりもいっそう判然とスティグマのあることがわかる人々に向かって、スティグマのない人が自分に対してとるのと同一の態度をとる」。

 

 スティグマ(汚名、烙印)、つまり、落伍者という烙印を押された人間は、よく言われるように、「痛みを知ったものは、弱い者に対して優しくなる」のではなくて、自分より弱い立場の者へ、(自らが受けたような)排除や迫害の矛先を向ける、ということです。

 

 また、精神分析創始者フロイトは、『文化への不満』の中で、こう述べています。

 

 「人間はいわば、ローマ帝国において負債と兵役に苦しめられる哀れな下層民なのだが、他の国の人々に対してはローマ市民としてふるまうのであり……中略……抑圧された階級は、自らを支配し、搾取する階級と自己を同一視するのである」。

 

 

 「大きくて分厚い肉」を独り占めしている者を、「小さい薄い肉」にもなかなかありつけない者たちが攻撃したり、否定・批難することは、滅多にないように思います。

 それどころか、「自らを支配し、搾取する階級と自己を同一視」し、立派だ、優秀だ、素晴らしいなどと、ほめそやし、尊敬するのです。

 

 

 『ウィンド・リバー』には、「大きくて分厚い肉」にありつける人間は、ほとんど出てきません。

 あぶれものたちは、小さくて薄い、細切れの肉を奪い合い、殺し合いになるのです。

 

 

 世界の端っこどころか、その外に追い出された者を、文明社会の果実をむさぼり喰うのに忙しい者が顧みることはありません。
 ただ、「美味しい目に遭っている」自分たちに、火の粉が飛んでくることのないよう、あぶれものどうしの“近親憎悪”に火をつけて回るのです。


 そんなことは、たいした細工もなく成功します。


 人間は、まさか、自分がいちばん負けていて、みじめで、落ちぶれたあぶれものだなどと、思いたくもないからです。

 

 そうして、あぶれものたちは、あぶれものたちを獲物とした、“人間狩り”をはじめていくのです。

 

 それは、死のうが生きようが、気にかけてもらえることもない、社会から見放された者を、見放された自分が「狩る」ことによってのみ、優越感と自尊心を満たそうとする、悲惨なゲームです。

 

 

 FBI所属の女性、ジェーン・バナーは、若さゆえの柔軟さや感受性の鋭さでもって、被害にあった少女たちや、その家族に心から同情していますが、彼女は唯一、文明のメインストリートへの帰り道を保証されている存在です。

 

 人間は、自分が生きる社会で生きのびていくために、自分を取り囲んでいる環境への高い順応力をもっています。

 過去、どれほど生々しく味わった感情であっても、それを覚えていることが、生きるには邪魔で、不都合になった場合、人間は、それを忘れ去ることで、現実と自分の間に生じた齟齬の苦しみを緩和しようとします。

 

 おそらくは、若いジェーンもまた、そうなっていくことでしょう。

 

 かくして、違う世界で生き、違う階級や文化のなかで生きる人間どうしの心は、いずれ、ちりぢりに離れていきます。

 

 否、たとえ、同じ世界、同じ階級、同じ文化、同じような属性のなかで、「ともに」生きているようであっても、もともと、人間の心は、ちりぢりで、離れているのですが、その深い断崖を意識にのぼらせれば、たちまち孤独に耐えきれず、絶望に陥ってしまうことでしょう。

 

 そうした人間どうしの現実を、私は、この映画を観ることで、痛いほど、目の前に突きつけられたような気がします。

 

 そのような意味で、私にとっては、大変きつく、刺激が強く、「見るのではなかった」、と感じる映画であり、けれども、同時に、「見るべきだった」、「見てよかった」映画だったのだと、いまでは思っているのです。

 

 

                                 《おわり》