他人の星

déraciné

『沈黙―サイレンス―』―映画と、原作の両方から (4)

「弱き者」、汝の名は………

 

 ところで、「この世の弱き者」の代表として、物語の重要な位置を占める「キチジロー」は、ロドリゴ司祭を裏切り、役人に売っておきながら、彼の牢に近づき、しつこく何度も告悔(コンヒサン)をしに来るのです。

 

 同じ信者仲間からは、“転び者”と見下され、司祭(パードレ)からも疎まれつつあると感じているキチジローは、こんなふうに言います。

 

 「じゃが、俺にゃあ俺の言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。俺を弱か者に生まれさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい」

 「俺は生れつき弱か。心の弱か者には、殉教さえできぬ。どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺は生まれあわせたか」

 

 

 自分は、弱い。弱い者であるのに、神は、その弱い自分を、「ありのまま」に受け容れてくれるどころか、「強い者になれ」と言うのです。

 つまりキチジローにとっての「強さ」とは、誰にどんなに責められても、自分がキリシタンであることを隠さず、殉教をもいとわないような人間になることなのです。

 

 たとえ、殺されてでも、信仰の意志を守りとおす。

 それは確かに、潔い生き方かもしれませんが、誰にでも、簡単にできることでないのは、明らかです。

 

 「こんな時代でなければ」、「陽気な、おどけた切支丹として一生を送ったにちがいない」キチジローは、踏絵を踏んでは「許してくれ」、司祭を役人に売っては「許してくれ」、と、たびたび神のゆるしを求めるのです。

 

 

 前述したように、踏絵は信者であることをあぶり出すための“ニセモノ”であり、役人たちもまた、心から棄教しろと迫っているわけではありません。

 

 たとえば、こんなふうに。

 

 「早うすませばここから出られるとじゃ。心より、踏めとは言うとらぬ。こげんものはただ形だけのことゆえ、足かけ申したとてお前らの信心に傷はつくまい」

 

 心から、信仰を捨てろとは言わぬ、表向きの形だけでいいから、「踏んでみせろ」、というのです。

 

 この言葉を、百姓たちは無表情のまま聞いているのですが、言い渡した役人もまた、めんどくさそうです。

 

 嘘でもよいから形だけ踏め、という役人に対して、信仰を真っ正面から、真っ正直に表明する百姓たちの態度は、ある意味、ちぐはぐで、空回りしていて、かみ合っていない気もします。

 

 それもそのはずです。

 “強いる”側は、そのくらい何でもないだろう、と軽く考えがちですが、“強いられる”側にとっては、たとえ形だけでも、誰かから無理矢理従わせられるということだけで、ひどく屈辱的な思いをしなければならないのですから。

 

 

 ですが、こうした状況というのは、人間のいる時代や場所なら、どこでも見たり聞いたり、感じたり、あるいは自ら経験したりしたことのあるものなのではないでしょうか。

 

 前回は、「なぜ、(全員が全員でないにしても)キリシタンたちは、(ニセモノでさえあるところの)踏絵を踏むことができなかったのか」に対して、(誤解をおそれずにいえば)社会学的に考えてみたのですが、今回は、その動機を、心理的な側面から、もう少し掘り下げて考えてみたい、と思ったのです。

 

 

 たとえば、私は、日常的に、“ああ、踏絵を踏んだな”、と感じることがよくあります。

 自分でわかっていたり、気づいているとき、私の場合は、鳩尾のあたりが、しくしくと痛みます。

 そうして、ひどく落ち込んだり、失望して、情けなくなったりして、よく眠れなかったり、翌日になっても、まだ鳩尾のあたりが、焼けただれているような胸苦しさを感じることもあるのです。

 

 それはつまり、自分の本意でないことや、意に添わないことを、言ったり、やったりしなければならなかったあとのことなのです。(生きていれば、よくあることだと思いますが)。

 

 むしろ、はっきりそれとわかる形で“強いられる”というよりは、その場の空気に押されてのことだったり、あるいは、あとで面倒なことや煩わしいことに巻き込まれないよう、予防として、自ら率先して、わざと踏んでみせたり、ということの方が、多いと感じます。

 

 ですから、私は自分を、“キチジロー”に見たのです。

 臆病で、弱く、だからといって、開き直ることもできずに、自分のあやまちを誰かに消してほしくて、みっともなく、グチを言ったり、ゆるしを乞うたり、ゆるしを乞うたそばから、すぐまた同じことを繰り返す。

 

 きっと、気づかないときには、“踏む”という行為にすっかり慣れてしまい、何も痛みも感じないことさえ、あるのかもしれません。

 

 それを、意識し、気づいたときに、思ったのです。

 

 私は、いったい、何の踏絵を踏んだのだろう、と。

 

 それはおそらく、自分自身だと思うのです。自らの、自尊心のようなものに、足をかけたのです。

 

 人間というものは、誰も、確固たる自信をもって生きてなどいない、と、フロイトは言っています。

 だからこそ、危険な外界、とくに他者から自分を守るために、あえて、自分で自分を貶め、踏んでみせなければならないことは、さほど稀なことではないのではないでしょうか。

 

 少なくとも、私自身は、そういうことをたくさんしてきたと感じます。

 そしてまた、気付いていないだけで、私もまた、誰かに、「踏絵を踏ませて」きたのでしょう。(自分にとって、都合が悪いことですから、忘れてしまっていますが)。

 

 

 もっというと、それは、様々な意味で、「自己愛」(ナルシシズム)に大きく関係していることなのではないか、と思ったのです。

 

 

                             《(5)へ つづく》