他人の星

déraciné

『沈黙―サイレンス―』―映画と、原作の両方から (7)

掌の内に守るもの、掌の内で守ってくれるもの

 

 ところで、宮崎賢太郎氏は、日本のカクレキリシタン信仰を、「キリスト教的雰囲気を醸し出す衣をまとった典型的日本の民俗宗教の一つ」であり、その深層には、「さまざまなフェティシズム(呪物崇拝)的霊魂観念」がある、と述べています。

 

 「フェティシズム」(呪物崇拝)とは、(いまで言う「フェチ」は、フロイトがそこに性的なニュアンスを込めて流用したものです)例えば、十字架やメダイ、ロザリオなど、信仰の象徴として、そこに何か神がかった力が宿っていると感じられるもの(自然物でも人工物でも)を崇拝することを意味します。

 

 カクレキリシタンの人々が、そうしたものを熱心に欲しがるようすは、『沈黙』でも描かれています。

 

 「もう一つ注意しなければならないことは、トモギ村の連中もそうでしたがここの百姓たちも私にしきりに小さな十字架やメダイユや聖画を持っていないかとせがむことです。………私は彼等のために自分の持っていたロザリオの一つ一つの粒をほぐしてわけてやらねばならなかったのです」

                      遠藤周作『沈黙』

 

 要するに、キリシタンになる以前には、たとえば、小さな神仏像を身につけるなどしていれば、「鉄砲の弾が当たら」ず、勝利をおさめる、と信じられていたのが、キリシタンの象徴物に変わっただけにすぎないのです。

 

 たとえば、“持仏”については、文化人類学者の上田紀行氏が、自分だけの望みや願い、悩みごとをきいてくれる「私だけの」所有物であり、同時にそれは、人間や生きものではないにしろ、生き生きとした、(ゾクゾクするような、萌えるような)感情の一瞬を切りとった「永遠」の象徴であり、諸行無常の中の「不変のもの」だと述べています。(NHKETV特集 新しい文化とフィギュアの出現』)

 

 

 諸行無常

 川の流れに象徴されるように、この世の森羅万象、生きものも、人間も、変わらないものなどなく、すべてははかない一瞬を生きる存在でしかありません。


 私は、仏教の専門家ではありませんが、仏教の教えである生老病死と合わせた四苦八苦(愛するものと分かれねばならぬ苦痛、憎い人たちと会わねばならぬ苦痛、求めるものが得られない苦痛、体や心をもつことから来る一切の痛み苦しみ)を思い出します。

 

 “寄る辺ない”私たちにとって、空は、いつでもあるとは限らず、大地は、いつまでもそこに安定してあるとも限らず、まして、信じていた人間が、いつまでもそのまま裏切らずにいてくれるとは限りません。

 

 そうした中で、人間は、いったい何を信じ頼り、何に身をまかせたらよいのか、いつもぐらぐらした足もとと、不透明な未来を生きていかねばならないのです。

 それは、古今東西、人間ならば、必ず感じる不安であって、皮肉にも、生きている以上、そうした不安や苦痛とは、切っても切れない縁で強く結ばれているわけです。

 

 

 カクレキリシタンでいえば、私も実際に見たことがありますが、「マリア像」といっても、その造形と雰囲気は「観音さま」であって、それゆえ、「マリア観音像」と呼ばれているのです。

 

 けれども、たとえばカクレキリシタンの、ごく一部の人をのぞく大多数の信徒は、聖書を読んだこともなく、キリスト教の教義を何一つ理解しておらず、彼らが命をかけたのはキリスト教そのものへの信仰心ではなかった、ということは、たいした問題ではない気がするのです。

 

 たとえば、本当にキリスト教の教義を理解し、聖書をすみからすみまで読み、暗記していたとして、その人は、その宗教を、本当に本質から理解したことになるのでしょうか。

 

 宗教は、人なり、あるいは、信仰は、人なり、だと私は思います。

 

 「神」、といわれるもの―唯一絶対神であっても、八百万の神であっても―を理解するのは、人間の脳であり、心であり、身体であるわけです。

 

 その超自然的な力と、自分との関係や位置づけを、どのようなものにしたいとか、言い換えれば、どのような関係であると捉えれば、いちばん自分が救われた気がするのか、あるいは、自分が「撰ばれし特別な存在」、と感じられるのか、自分の最も納得する関係を、「神」との間に結びたいと思う、それが人間ではないのでしょうか。

 

 何せ、すべてを超えた全知全能の、超自然的存在、それが、「神」、なのですから。

 

 しかし、「神」や「宗教」を信じるのは、自分自身の身体や心を通してしか、この世界を捉え、理解することができない、(ほとんど無知無能で矮小な)主観的人間なのです。

 

 ですから、本当で、ほんものの教え、というものは、それこそ、それを信じる者の数だけあるといってよいのではないでしょうか。

 

 私は、それを誰か他の人が、「それは間違っている」といって、責めたり、批判したり、悔い改めるよう迫るのは、何か違う気がするのです。

 

 諸行無常の中にあって、何か、何でもよいから、できるだけ確実なものとして信じ頼ることができるものを、誰だって欲しいはずです。

 そうして、できれば、自分もまた、その対象から、「他の人々とは違う特別な存在」として“愛されている”と感じたいはずです。

 

 人間の、そのような、本質的な“救われがたさ”から、神や宗教、あるいは、何か超越して「美しい」感じがするもの、あるいはそれ以外の何でも、心から強く求め、信じ頼ることは、当人の自由だと思うのです。

 

 そして、人は、かたちなきものに強い憧れを感じつつも、かたちあるものなしには、安心して生きていくことができません。

 信仰のかたちもまた、同じでしょう。

 

 だからこそ、同じ宗教を信じる者同士が集う空間や時間を決めたり、寺院や教会などの建物を建てたり、素晴らしく美しい像を造り、その「偶像」を拝んだり、ロザリオやメダイを(あるいは、ニセモノである踏絵さえも)信仰の象徴としたり、キリストのからだであるところの「ホスチア」、キリストの血であるところの「ワイン」を分け合い、五感を駆使し―目で見て、聴いて、触れて、味わって、においを嗅いで―死にものぐるいで、安心と信頼を引き寄せ、抱き締めようとするのではないのだろうか、と思うのです。

 

 

                          《(8)へ つづく》