他人の星

déraciné

音楽のゆりかご

 

 ビートルズの、“Eleanor Rigby”という曲が好きです。

 前日の詩は、この曲と歌詞のイメージで書いたものです。

 

 もう何十年も前のことになりますが、私が大学生のとき、ビートルズのアルバムをCDで買いそろえ、ヘヴィローテーションしてました。

 

 おかげで、何かきっかけあるたびに、(たとえば、友人と会話がかみ合わなかった時には“She Said She Said ”、ストレスたまって爆発しそうな時には“Helter Skelter”、はらわた煮えくりかえった時には“Maxwell's Silver Hammer”、テレビでウクライナ美女を見た時には“Back in the U.S.S.R.”などなど)、頭の中で、ビートルズの曲が、ジュークボックスか何かのように流れ出します。

 

 私がビートルズを聴いてみようと思ったのは、十代の頃から好きになった(熱愛した)イギリスやアメリカのロックミュージシャンのほとんどが、自分のルーツとして、“ビートルズ”をあげていたからでした。

 

  ものごころついたころ、私の記憶の一番最初にある音楽は、“禁じられた遊び”と、“朝日のあたる家”(アニマルズ)でした。

 

 この世界が指さす“現実”、というものについて、十分に理解できなかった(今も…ですが)子どもの私には、その旋律の美しさやもの悲しさが、生きることの本質か何かのように感じられたのかもしれません。

 

 そのせいか、私は今でも、明るく楽しい曲よりも、哀しげで美しい曲に、強く心をひかれます。

 

 ところで、いろんなものを、自分の身にまとうようにして、コレクションする人がいます。(私も、です)。 

 身に着けるもの、だけではなく、自分のアイデンティティの一部か、自分の分身のように、その美しさを愛でる、あるいは、気持ちのよりどころとして、そばに置いておくものもあります。

 たとえば、不安なときや、さびしいときに、お気に入りのぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめるのは、子どもだけではないでしょう。

  

 人間として生まれてしまった以上、人はみな、それぞれ、自分のからだと心を、人間の社会生活に合わせて、うまく運用していかなければなりません。 

 

 赤ちゃんは、お母さんに抱っこされて安心しますが、その“お母さん”だって、一日、一日、人間を生きるのに必死です。 

 ずっとずっと、何もしないで、赤ちゃんを抱っこしているわけにはいきません。

 食べたり、眠ったり、トイレに行ったり、お買い物に行ったりしなければなりません。

 赤ちゃんもまた、同じです。

 人間の赤ちゃんは、大人に世話をされず放っておかれたら死んでしまいますが、それでも、一人ですごす時間や、眠っている間に、人間として生きる術を学び、蓄えていきます。

 

 人は、さびしがりやでほしがりやですが、自分のさびしいときには誰かにそばにいてほしいと思いつつ、一人でいたいときに、誰かにずっとそばにいられたりすると疎ましく感じるという、ひどく自分勝手な気分やさんでもあります。

 

 「誰かにそばにいてほしい」、「誰かのためにそばにいてあげたい」、などということは、人間相手である以上、現実的に考えれば、不可能なわけです。

 あるいは、心が傷ついたときや、孤独を感じるとき、その傷が、深いものであればあるほど、不用意に“素手で”さわられようものなら、激しい痛みを感じることでしょう。

 

 人にとって、人との間で満たしたり、癒したりすることができるものもありますが、その一方で、どうしても、人との間では、満たしたり、癒したりすることができないものがあるのではないでしょうか。

 

 

 私は、小さい頃から、音楽って不思議だ、と感じてきました。

 誰か人がそばにいるときよりも、安らぐこともあれば、水のように、傷を洗い流してくれたり、風のように、さりげなく傷に包帯を巻いてくれたりすることもあったのです。 

 ですから私は、人との間で癒すことのできない、心の深手を癒すことができるのは、“人”ではなくて、“人がつくったもの”の方、なのではないかと、思ってきたのです。

 

 

 私の両親は、娘にピアノを習わせるのが夢だったようです。

 私は、小学校に上がる頃から、ピアノ教本の入った、重い、子どもの肩には痛いショルダーバッグを持って、ピアノ教室に通っていましたが……。

 

 もともとなまけもので、練習嫌いな私のピアノといったら、それはそれは悲惨なもので、年数をどれだけ続けても、まったく上達しませんでした。

 

 美しい音楽を、自分の手でつくり出し、それを演奏する人には憧れます。

 けれども、私は、それ以上に、素晴らしい音楽の受け手になれることに、強い幸福を感じているのです。

 

 人が人のそばにいて、できることは、ほんのわずかだと思います。

 

 何か、とても大きなものがーそれを、「神」といってしまってよいのかどうか、わかりませんがー人によってつくられ、それが、人対人以上に、人を癒やすことがある。

 絵画や音楽、映画、物語、あるいは、何か、目に見えるモノとして、その人にとっては、かけがえのない、いつもそばにいてくれる何かが……。

 

 人との出逢いもまた、幸運ですが、自分にとって、かけがえのないものたちとの出逢いもまた、より純粋な意味での、幸運、幸福そのものではないのだろうかと、私は思うのです。