朝、いつもバスで通る小さなスーパーの前に、「看板犬」がいます。
赤の柴犬で、もう何年も前からそこにいて、だいぶ年をとったのでしょう、最近では、眠っているか、「伏せ」の姿勢で、まぶしそうに目を細めて、朝日を見ています。
その犬が、どんなにまぶしくても顔をそむけたりせず、まっすぐに、朝日を見つづけているのを見て、前回の詩が浮かんできました。
むかし、私の家でも、犬を飼っていました。
北海道犬の赤の、メスでした。
日本犬で、キツネ系の顔をしていて、その「看板犬」もキツネ系の顔をしているので、つい、彼女のことを思い出すのです。
彼女は、遊び好きで、家の者には無邪気に甘えるのですが、見知らぬ人やものへの警戒心が強く、吠え声が猛々しいので、よく、オスと間違えられたりしました。
凜としていて、とても優しい犬でした。(飼い主馬鹿ですね)。
彼女は、十歳で死んでしまいましたが、私はそのときには、家を出て一人暮らしをしていたので、死に目に会えませんでした。
両親が最期を看取り、ひとり(一匹)で旅立ってしまったのでないことは、せめてもの慰めでした。
けれども、最後に会った数ヶ月前には元気だったので、亡骸を見て、涙は出ても、よくわからないもやもやでいっぱいになりました。
「私のこと、本当は、どう思っていたの?」
ノートに、同じ文章を何度も何度も書きなぐるように、パソコンで、同じ文章を何度も何度も打ち込むように、頭の中が、そのことでいっぱいになったのです。
「魂のぶん」、でしょうか。
ひとまわり小さくなったように見える彼女の、眠っているような横顔をみつめて、私は、わけもわからず、頭の中で、その言葉をただ繰り返していたのです。
映画『存在の耐えられない軽さ』の中で、飼い犬に「カレニン」と名付けた主人公の妻テレザが、「カレニンのことは愛してた」、というようなことを言っていたと記憶しています。
誰か人を愛しているとか、愛していたとか、そう簡単に言うことはできないし、言ったとしても、「純度100%」では決してなくて、何十%か、何%は嘘だったり、あるいは、がらりと心変わりしてしまう可能性もあるけれど、犬に対しては、「愛してた」とはっきり言えるくらい、心の武装を解いて、安心して、素直で純粋な感情を抱けるということなのだな、と思ったのです。
私自身、死んでしまった彼女が生きていた間、その潤んだ黒い眼で、私のことを「わかっているのよ」、と言ってくれていた気がしたのです。
言葉は、砂浜の砂のようだと感じます。
いまそこにあるものが、ずっと変わらず、同じ場所にあり続けているとみせかけて、絶対にそうではないからです。
波にさらわれたり、風に吹かれたりして、どこかへ行ってしまうのが、むしろあたりまえなのです。
言葉は、それを使う人にその気はなくとも、必ずいくらかの嘘が含まれていて、なおかつ、その場限りのものです。
だから、人間に対しては、「愛してる」だの、「愛してた」だのいえなくとも、犬にだけは(動物やもの)に対しては、「いえる」のです。
相手が、嘘を本質とする言葉を操る存在でないからです。
それなのに、彼女の亡骸を見たとたん、浮かんできたのは、「私のこと、本当はどう思っていたの」、だったのです。
矛盾も矛盾です。
彼女が生きている間、言葉を話さないからこそ、彼女に理解されていたと感じていたのに、死んでしまった彼女から、はっきりとした言葉で、気持ちをききたくなった、というのでしょうか。
自分の気持ちが、よくわからなくなりました。
大島弓子の漫画『バナナブレッドのプディング』の中で、主人公の女の子、三浦衣良は、庭にあるバラの枝が、風に吹かれて「カリリ カリリ」と板塀をたたく音を、何かを訴えかけてくるようで気になり、寒い冬の日に、バラのしげみの中で一日を過ごします。
「時はたって 昼がすぎ 夕方になり しんしんひえて……
手足も ひえて なんだかへんに なってきたとき
わたしに やっと 彼らのことばが 通じたのよ
『ありがとう さみしかったんだ』
『ありがとう うれしかったよ』
しげみがはっきり そういったのを わたしは聞いた」
「バラの言葉」は、きっと、砂浜の砂のような言葉ではなくて、伝わってきたり、聞こえてきたりした瞬間、心にまっすぐ突き刺さって、理屈抜きで信じられるようなものなのだろうに、と、私は、「衣良ちゃん」を、心からうらやましく思いました。
言葉は嘘だから不安だし、信じられない。でも、言葉ではっきりききたい。そうして、それを、信じられたら。
もし、死んでしまった「彼女」の言葉がきこえたら。
彼女の言葉も、きっと、「バラの言葉」と同じたぐいのものだろう。
人間の言葉を信じられない私に、信じられるようにさせてくれる言葉を、きかせてほしかった。
そういうことなのかな、と、いまでは思っていますが、「もやもや」は、消えそうにありません。