他人の星

déraciné

『心と体と』(1)

 

       “If you've got love you sights

           watch out,love bites” 

       ーもし、目の前に、愛が見えたら

        気をつけろ、愛は、人を刺すからー

 

                  “Love Bites” DEF LEPPARD

 

 

 さて、問題です。ジャジャン♪

 あなたが、誰かに恋をしたとしましょう。

 あなたは、好きだから、その人を見てしまうのでしょうか?

 それとも、見てしまうから、好きになってしまったのでしょうか?

 

 何?好きだから、見てしまうに決まっているじゃないか、って?

 ブブー。ハズレでーす♪

 

 正解は、見るから、好きになる、です。

 

 同じように、悲しいから泣く、と思いがちですが、正解は、泣くから悲しい、怖いから逃げる、ではなくて、逃げるから怖い、となります。

 要するに、本人に意識された気持ちや感情が先ではなく、まず、無意識(本人が気づいておらず、意識にのぼらないもの)的な行動が先にあって、そうした自分の行動(見る、泣く、逃げる)に、時間がたってから、ようやく気がつくのです。

 

 例えば、こんな感じでしょうか。

 

 「どうしたんだろう。わたし、ふと気がつくと、いつも、あの人のこと見てる。

 どうしてだろう……どうしてだろう………。

 ………そうか、わたし、あの人のことが好きなんだ」

 

 

 

 人間には、自分の言動に、どうしても意味や理由をつけたがる性質があります。

 不安になるので、わけのわからないものを、わけのわからないままにしておきたくないのです。

 そこで、いつも後手後手の“意識”は、なんとしてでも理由をみつけて、自分の行動を意味づけしようとします。(ときには、事実や真実とはまったく違う捏造までもすることがあります)。

 

 認知科学者の、もっとちゃんとした言葉で言えば、こうなります。

 「私たちの知覚や態度や行動は、いずれも無自覚のメカニズムに支えられており、私たちが自覚的に体験し、ことばで報告できるのはその出力の部分だけ、それもほんの一部であるかもしれないのです。」

      下條伸輔『サブリミナル・マインド 潜在的的人間観のゆくえ』中公新書

 

 つまり、何らかのきっかけか、あるいは、他人からの指摘などによって、やっと気がついたときには、もうだいぶ前から、自分はその状態にあったのであって、気づいたからといって、いまさらどうにもできないし、どうにもならない。

 わたしの中に、何人もの他人がいて(たとえば、数えきれないほどの民衆のようなものだとしましょう)、勝手にいろんなことを感じたり考えたりしているのですが、「意識」という“わたし”の中の王さまが気づくのは、そのほんの一部。

 あとは、闇から闇へ、(特に都合の悪いことほど)追いやられて、心の奥の方に、巨大な無意識の層を形成します。

 

 その巨大な無意識の層は、押し黙り、おとなしくしていて、何もしないと思ったら、大間違い。

 

 何も知らない、お気楽な「意識」という王さまは、自分の行動や言葉、考え方や価値観に至るまで、たくさんの民衆=巨大な無意識層に、根の部分から翻弄され、突き動かされているということに、少しも気づかないのです。

 

 

 さて、『心と体と』という、ハンガリーの映画です。

 思いっきり、最初から最後までのネタバレをすれば、こうなります。

 それぞれ異なる種類の孤独を感じている男女が出逢い、お互いを好きになっていくのに、うまくいかず(心もですが、体の方も)悶々とし、紆余曲折あって、めでたく結ばれる(肉体的にも)。

 

 よくある話なのです。

 けれども、そういうよくある話を、メルヘンだけでもなく、苦しさや悲しみだけでもなく、滑稽さだけでもなく、バランスよく描いている、素敵な映画だと思いました。

 

 舞台は、食肉牛の屠殺が日常的に行われている、食肉加工工場です。

 主人公のマーリアは、若い金髪美人ですが、他人とのコミュニケーションが苦手です。表情に乏しく、軽い冗談やどうでもいいことが大半の、女の子たちの会話にまじることもできません。

 また、その驚異的な記憶力と洞察力のせいで、今まで「Aランク」とされていた肉を、脂身の厚みで「Bランク」と正確に判断してしまうため、なぁなぁでやってきた職場で齟齬を来し、孤立していきます。

 

 今流行りの障害名でいえば、アスペルガー症といったところでしょうか。

 特に理数系の側面で頭が良く、優秀で、ものごとの結果や経緯について、その詳細にわたる記憶力や洞察力が並外れて優れているのですが、嘘や冗談や比喩が通じず、軽い会話を交わすことが困難で、臨機応変な対応ができず、いつも「四角四面」であるために、人間関係に齟齬を来すのです。

 

 他の女の子たちから離れて、日陰に隠れて立つ彼女を、上司の、左腕が不自由な中年男性エンドレが気にかけるようになります。

 

 二人が出会うのと前後して、静かな雪の森を、ときに寄り添い、ときに離れながら互いを見る、雄と雌の鹿の映像が流れます。

 

 映画の冒頭も、そのシーンでしたが、それが、マーリアとエンドレ、二人が見ている同じ夢だということが明かされるのは、工場で起きたある事件がきっかけでした。

 

 工場で、食肉牛の交配を人工的に促す薬が盗まれた、という事件であり、エンドレは、つい最近工場に勤めるようになった若い男性シャーンドルを疑います。彼はよく、工場の女性たちにちょっかいを出し、マーリアをからかったりしています。

 おそらくは、まだマーリアへの自分の気遣いを、恋だと認識できていないエンドレの、無意識的な嫉妬心からなのでしょう。

 事件の真相を、精神面(特に性的な側面から)探るために派遣された女性セラピストによって、工場職員全員が面接を受け、マーリアとエンドレが、自分が鹿になって、マーリアは雄の鹿と、エンドレは雌の鹿といる夢を見ていることがわかったのです。

 

 フロイトによれば、夢は、「願望充足」を原則としますが、おそらくは、マーリアも、エンドレも、最初に出会ったときから、相手のことが「気になり」、「好き」だったのでしょう。

 

 けれども、「意識」という王さまは、どっかりと玉座に腰を落ちつけ、すべて世はこともなし、気がついていないのです。

 

 無意識下で、当人同士も、誰も気がつかないうちに、静かにはじまっている、二人の恋。

 それが、鹿の夢の意味するところなのだろう、と私は思いました。

 

 

                            《(2)へ つづく》