他人の星

déraciné

不謹慎、上等(2)

 防衛機制、というのは、人間ならば誰しももっている欲求や衝動(主に、攻撃欲求や性的欲求など)を、そのまま露わにすれば、場合によっては“犯罪”として罰せられ、社会から排斥される危険性があるときなどに、無意識的に発動する心の働きです。

 その働きによって、私たちの心は、社会との摩擦によって、取り返しのつかないほど大きな傷を負わないよう、自らを守っているわけです。

 

 この防衛機制には、いくつか種類があり、たとえば、イソップ童話の『キツネとぶどうの話』などでよく説明されるのは、「合理化」といって、欲しいものが手に入らなかったときに、その不快感を引きずることのないよう、正当化する働きです。

 

 キツネは、高い所になっているぶどうが欲しくて、懸命にジャンプしますが届きません。そこで、キツネは言うのです。

 「ふん、どうせ、あのぶどうはすっぱくておいしくないに決まってる」。

 

 日頃、私たちの心は、適度に防衛機制を使うことで、失敗や挫折にいちいち引きずられて、社会生活に支障の出ることがないよう、人間社会とうまくつきあっていこうとするのです。

 

 そして、「反動形成」とは、何か理由があって表に出せない潜在的な欲求や衝動がある場合、それを隠すために、それとは真逆の感情や行動を表出させることです。

 「打ち消し」とは、自分のしたことが、たとえば、「人間として」恥ずかしい行為である場合に、その罪悪感を打ち消すため、逆に「人間として」ほめられるような言動を取ることで、いわば“罪消し”です。

 

 

 ところで、最近、災害のたび気になるのは、マスメディアによって伝えられる、「命を守る行動をしてください」、という言葉です。

 このメッセージは、いったい、何を思って発せられるのでしょう?

 この社会は、災害によって、人々が命を失うことのないよう、最後まで心配してくれるような、優しくてあたたかい社会だ、とでもいわんばかりです。

 

 ですが、私は、その言葉をきけば聞くほど、「嘘くささ」を感じてしまうのです。

 

 そうして、この、「命を守る行動をしてください」、という言葉を発したその同一の方向から、「苦しんだり、困ったりしている人がこんなにもたくさんいるのだから、不謹慎な言動は慎め」、という声が聞こえてくるように感じるのです。

 


 この社会。私たちが、生きて、死んでいく社会とは、どんな社会なのでしょうか。


 たとえば、カミュの『ペスト』の中に、こんな表現があります。

 

 「病気をしているのはいかなる場合にも愉快なものではないが、しかし、病気のなかで身をささえてくれ、ある意味でのんびり羽を伸ばしていられるような、そういう町や国もある。……ところが、オラン(という町)は、………楽しみというものの質など、すべてが健康を要求している。病人はこの町でまったくひとりぽっちである。」

 

 「病人」のところを、「生活困窮者」と言い換えてもいいでしょう。
 この場合、要求される「健康」とは、日常生活や家族の扶養、将来に至るまでの衣食住の安心のための経済力や生産性、と言い換えることもできるでしょう。

 

 今回、台風19号の際には、東京台東区では、ホームレスは特定の住所をもっておらず、「区民ではないから」と、避難所に避難することを断られたそうです。

 彼は、自ら、マスメディアが発するメッセージどおりに、「命を守る行動」に出たわけです。
 けれども、行政側は、これを受け入れませんでした。

 これは、いったい何を意味するのでしょうか。

 

 「命を守る行動を取ってください」。―ただし、それが受け入れられるかどうかは、無条件ではなく、個々人の様々な属性によって「選別」される―。


 カミュの言葉を借りるならば、「病人」、つまり、自助努力の限界を超えた問題を抱えている者は対象外、自立自助できる「健康」な人のみが受け入れられる、ということでしょうか。


 だからこそ、この、「命を守る行動を取ってください」、という言葉が、ことさら何度も何度も、執拗に繰り返されるのではないのでしょうか。

 

 日常的には、生命や暮らしの中で、「命が守られていない」社会だからこそ、非常時になって、「命を守ってください」と言う、そうした意味での、「反動形成」の発動と、非生産的存在への、日常的な社会的排除と裏腹のメッセージを打ち出すことでの、「打ち消し」という防衛機制の発動です。

 

 文明社会である以上、どんな人の人権も守られてしかるべきであり、社会的努力によって救われるはずの命を、日常的には、“死ぬにまかせている”―。

 

 高度に文明が発達した社会であるとは到底思えないことが、平時、まかり通っていることへの、無意識的な恥ずかしさや罪悪感が、社会全体の痛みとして、意識を突きあげ、その不快感を掻き消す絶好のチャンスとして、災害時などの非常時が、利用されてしまっているのではないでしょうか。

 

 私がそれを強く感じたのは、あの、8年半ほど前の、東日本大震災の時でした。

 

 

                             《(3)へ つづく》