他人の星

déraciné

ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』(6)―なぜ人は、“人間らしさ”=優しさやあたたかさ、思いやりだと思うのか?

人間は、そんなにいいものか?

 

 

  「いったいみなさんは、人間の本性に利己主義的な悪が関与していることを否定する義務を感じなければならぬほど、上司や同僚から親切にされたり、敵に義侠心を見出したり、周囲からねたまれずにいたりしているのでしょうか。」

                    フロイト 『精神分析入門』

 

 

 フロイトが言っていることは、人間の現実に他ならない、と思います。

 現実の社会生活の中で、私たちは、日常的に、自分と同類である人間から、ひどい目に遭わされているのではないのでしょうか。

 (そんなこと一度もない、という人も、いるのでしょうか?????)

 

 そのたびに、人間関係をもつこと、あるいは、必要以上に親密になり、自分の本音を明かしたりして、深入りするのはもうやめよう、とか、もう人間なんて、信じない、と、かたく心に誓ったりすることも、あるのではないでしょうか。

 

 (『もののけ姫』に出てくる猩々たちのように、「人間信用できない」、「人間出て行け」、「俺たち人間喰う」とひそかにぼやくことも……)←注:私のことです

 

 

 それなのに、ほんの少しでも、他人から優しくされたり、他人の親切な行いを見たりしただけで、180度ころりと回転、ほわほわわ~んとした気持ちになるのも、おかしな話だと思います。←注:これも私のことです

 

 

 繰り返しになりますが、フロイトが言っていることこそ、本当のことです。

 

 なのに、なぜ、私は(私たちは?人間は?)、「人間らしさ」というと、つい自動的に、優しさやあたたかさ、思いやりのことだと思ってしまうのでしょう?

 

 

 あの『ウルトラマン』の歴史に残る名作、「故郷は地球」も、そうです。

 地球の科学発展のためのロケット発射実験が失敗し、宇宙に捨て去られた宇宙飛行士“ジャミラ”が、行き着いた星の環境に適応し、体が変化して怪獣になり、故郷の地球へ復讐するために帰ってきて、大暴れするのを見て、科学特捜隊のイデ隊員は、こう叫びました。

 

 「ジャミラ、てめぇ、人間らしさを忘れちまったのかよ!」

 

 イデ隊員は、ジャミラと同じ科学者であり、科学特捜隊の中で、もっともジャミラの境遇に同情し、ジャミラを殺すなんてできない、と言ったにもかかわらず、です。

 

 もっと言うと、科学のために人間を犠牲にしたなどと公に知られることがないよう、ジャミラのことは、誰にも知られずこっそりと、「秘密裡に葬り去れ」などと命令する、そのあまりの人間の冷淡さ冷酷さに接したにもかかわらず、彼は、まだ懲りずに「人間らしさ」を善いものと信じているようなのです。

 

 

 かくいう私もそうで、人間からひどいことをされて、同じく人間である自分のことは棚に上げて、「人間はひどい」「信じるもんじゃない」と言うのに、ふと気がゆるむと、ほとんど「自動的に」、人間らしさ=優しさ、あたたかさ、思いやりだと懲りずに思っている自分がいて、そのたびに、驚きあきれるのです。

 

 

 これほど何度もごしごしタワシで血が出るほど洗いに洗っても(たとえです)、人間らしさを善きものと思うクセが、しつこい汚れのようにとれない、ということは、これはもう、おそらく、個人の心や心情のレベルを越えた問題なのだな、と思いはじめたのです。  

 

 

 

 

救われない最後

 

 ここからは、再びネタバレになりますので、ご注意ください。

 

 

 ジャックの一味が、ピギーの眼鏡―“火”を盗みに来る前、ラーフとピギーが、ジャックたち狩猟隊が仕留めた野豚の肉を分けてもらったとき、最初の悲劇が起こります。

 

 顔に隈取りをし、いまではすっかり仲間を増やしてラーフより優勢になったジャックは、皆に、“いつものダンス”をするよう、命じます。

 

 いつものダンスとは、皆が輪になって、「獣ヲ殺セ!ソノ喉ヲ切レ!血ヲ流セ!」と口々に唱えながら踊る、一種の儀式めいた集団行動です。 

 

 そのとき、その場にいたラーフとピギーも、「この狂気じみたしかし半ば安定している団体の中に参加したい」という気持ちになっていくのです。

 ジャックとの対立による不快な感情や、ジャックの勢いによって、どんどん自分たちが取り残されていくようなさびしさや心細さから解放され、自分たちも仲間になって、「ほっとした気持ちになりたい」、という心理からでした。

 

 

 しかし、その踊りのさなか、ちょうど、輪の真ん中で、狩られる豚の役を演じていたジャックの手下、ロジャーが抜けて、自らも輪に加わったとき、そこへ新たに転がり込んできた少年がいました。

 

 それは、もとはラーフの側にいて、彼を手伝っていたのですが、いつしかひっそりと姿を消していた少年“サイモン”でした。

 

 このサイモンこそ、島で皆が恐れた「獣」と、もっとも正面から向き合った少年だったのです。

 

 彼は、ジャックたちが狩った豚の頭を「獣への贈り物」だと言って置いていった場所で、その豚に真っ黒にたかる蠅の中に、“蠅の王”を見るのです。

 

 蠅の王は、サイモンにこう言います。

 

 「獣を追っかけて殺せるなんておまえたちが考えたなんて馬鹿げた話さ!」

 「おまえはそのことを知ってたのじゃないのか?わたしはおまえたちの一部なんだよ。おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ?」

 

 そうです。“蠅の王”が言うように、サイモンは、気がついていました。

 「ぼくがいおうとしたのは……たぶん、獣というのは、ぼくたちのことにすぎないかもしれないということだ」

 以前、みんなの前で、こう発言したのですが、馬鹿げている、と嘲笑されただけでした。

 

 

 蠅の王との対話の後、彼は、どこからか、パラシュートで脱出したものの、そのまま死んでしまい、島に降り、風でパラシュートが開くたびに立ち、しぼむと、お辞儀をするように頭をたれるという、いかにも不気味な動きを繰り返していた人間の死体を発見します。

 

 皆が恐れていた「獣」の正体を見たサイモンは、みんなに知らせようと、ジャックやラーフたちがダンスをしている、その輪の中に飛び込んでいきます。

 

 けれども、踊り続けるうちに、ほとんど集団催眠のような状態に陥っていた彼らは、彼がサイモンだとも気づかずに飛びかかり、まるで豚のように惨殺してしまうのです。

 

 

 それだけではありません。

 

 

 ラーフやピギーと、ジャックたちの関係はさらに悪化し、明らかな敵対関係となり、ジャックの一味の攻撃によって、ピギーもまた、無残な死を遂げます。

 

 その後、みつかって捕まれば、殺されるだけのラーフは、島中を必死に逃げまどい、それをいぶし出そうと、見境なくあちこちに火をつけるジャックたちによって、島は火の海となり、もはや、誰一人、生き残ることができないであろう状態にまで陥ってしまいます。

 

 皮肉なことに、その大火によって、海軍の巡洋艦に発見されるのですが、ラーフ、ジャック、彼ら少年たちは、もう、“無垢”ではありませんでした。

 

 ラーフは、「全身をねじ切るような悲しみの激しい発作に」嗚咽し、他の少年たちも、引き込まれて同じように泣くのですが、もはや、取り返しはつかないのです。

 

 

 

大切なのは、もはや、“いのち”ではない

 

 

 おそらく、私たちは、誰もが皆、意識的であるにしろ、無意識的であるにしろ、人間である以上、その奥に、救われがたい残忍さを秘めていることを、どこかで知っているのだと思います。

 

 ですが、同時に、私たちは、誰もがみな、人間のはしくれとしてこの世に生を受け、人間の間で生きていかなければなりません。

 そのために、人間社会に“適応”できるようにしなければならず、もし、“善き”人間らしさを否定し、適応を拒めば、孤立と死が待っているだけです。

 

 人間の世界で、人間を信じ、うまくやっていけるよう、親は子どもに、必死になって、人間の良さを“人間らしさ”として教え込むでしょうし、もはや、個人の意志の力だけでは変えようがないほど、その価値観を、奥の奥まで、刷り込むのでしょう。 

 

 

 (4)で、ヒツジの群れは、群れの先頭を行くリーダーが崖から落ちると、みんな一緒に、崖から落ちてしまう、と書きました。

 

 

 新型ウィルスをめぐる「マスク」、あるいは、地震や自然災害などの際、よく、メディアを通して、「(自分や、大切な人の)いのちを守る行動を取ってください」、というメッセージがきかれますが、私には、何か、違うような気がするのです。

 

 

 マスクをする理由を調査してみたら、「みんなが着けているから」、という回答がいちばん多かったという話もそうですが、それと、「いのちを守ること」とは、どうしても、結びつかないのです。

 

 ということは、人間社会において、もっとも大切とされているのは、実は、「命を守り・守られること」ではなくて、「適応すること・させること」(逸脱した行動を取らないこと)の方なのではないでしょうか。

 私には、そうとしか、思えません。

 

 そうであるかぎりは、勢いのある流れが、たとえば崖へ向かっていった場合には、みんな一緒に自滅する、ということになるのでしょう。

 

 『蠅の王』で、勢いや場の流れによって、2人の少年の命が失われ、さらに、ジャックと彼の仲間たちが、島の果実や豚を燃やし尽くし、もはや誰一人、生きながらえることができないとしても、勢いにまかせ、“敵”(すなわち少数派、しかもたった一人の「逸脱者」)であるラーフをいぶし出そうと、ただそれだけのために、豊かな島のあちこちに、火をつけて回るように………。

 

 

 

 

                          《おわり》