『リリーのすべて』(2)ー「わたし」を生かすもの、あるいは、「殺す」ものー
雪だるまの“恋”
アンデルセン童話の中に、『雪だるま』というお話があります。
雪だるまは、外から見える家の中のストーブが、赤々と、時折、ちらちらと炎の舌を見せながら燃えるのを見た途端、なんとも妙な気持ちになり、胸が張り裂けそうになるのです。
“彼”を苦しめるのは、ただ一つ、“彼女”(=ストーブ)に寄り添いたい、あわよくば、その中へ入りたい、という衝動です。
悶々と苦しむうちに、やがて、暖かい陽光が、彼を青白く細く弱らせていき、とうとう、雪だるまは、溶けてなくなってしまいました。
雪だるまは知らなくとも、人間なら誰でも知っているでしょう、と、アンデルセンが問いかけるその答えは、“恋”、なのでしょう。
たかが、恋。されど、恋。
火に近づくことが、「死」を意味するにもかかわらず、雪だるまは、それを強く願わずにはいられませんでした。
なぜでしょう?
雪だるまが溶けてしまったあとに残されたのは、ストーブの火掻き棒でした。
もちろん、彼(=雪だるま)は、自分のからだの芯になっているものなど、知るよしもありません。
けれども、からだの芯にあった火掻き棒は、自らがあるべき場所を求めて、雪だるまの心を、激しくかき乱し、彼は、わけもわからず、「恋の病」の中で「死んでいった」のです。
「恋とはどんなものかしら?」
憧れの「憧」、という漢字は、心臓・心を現す忄(りっしんべん)、そのとなりに、目の上に入れ墨を入れられ、重い袋を持たされた奴隷、という成り立ちと意味があるそうですね。
(参考:okjiten.jp/kanji2176.html)
奴隷は、自分よりも立場が上の者から命じられれば、身も心も酷使し、そのためにたとえ命を落としてでも、そのとおりに動かざるを得ない状況におかれたものを言います。
いったいどうして、そのとおりに動かなければならないのか?
苦しみばかり与えるものならば、やめてしまえばいいものを。
身の心も、ぼろぼろになり、命さえ奪いかねないようなものに、なぜ、わざわざ危険を冒してまで、近づこうとするのか?
恋、愛、憧れ。
それは何も、恋愛や、性愛だけの問題ではないような気がするのです。
何かに強く心ひかれ、そこへ行かなければならないような、そうしなければ、自分が自分でなくなるような、何か。
たとえ、一瞬でも、一目でも、それを見てしまった以上は、「たとえ命にかえてでも」、突き進むしかなくなってしまう。
やめた方がいいのに、命取りになるかもしれないのに、それをわかっていても、どうにも止められない気持ちや衝動があるということは、アンデルセンが言うように、「人間なら、誰でも知っているのでしょう」。
「アイナー」と「リリー」の間で
ここからは、ネタバレを含みますので、ご注意ください。
さて、『リリーのすべて』は、実話をもとにしており、夫・アイナーは、性的違和感(今でいうところの、性同一性障害ですね)から、「世界で初めて女性に変身した男」であり、悩み苦しみながらも妻・ゲルダがアイナー(リリー)に寄り添い続ける、というお話です。
いまとは比べものにならないほど、「ジェンダー」と「セックス」が完全一致していることを、男女ともに求められていた時代でした。
アイナーは、個展を開けば大勢の人が集まるほど、風景画家として、世間一般の賞賛を得ていましたが、彼の描く絵は、いつもどこか寂しげです。
細く頼りない、生気のない木々が立つ景色。アイナーは、その景色を描きながら、ずっと、自分でもよく分からない胸の痛みを感じていたのでしょうか。
絵の中の、沼の色を決められず、どんな色にしたらいいのか、迷っているのです。
一方で、妻のゲルダは肖像画家なのですが、評価は今ひとつ、画商にも、なかなか絵を買ってもらえません。
ゲルダは、友人の踊り子、ウラの絵を描いていましたが、彼女の都合が悪く、アイナーに、足もとのモデルを頼みます。
なんともいいがたい気持ちを抱きつつ、ストッキングとバレエシューズを履き、花びらが開いたような白いドレスをあてがうのですが、アイナーは、ドレスの裾からすんなりのびる、ストッキングをはいた脚と、まるで矯正具か拘束具のように、つま先がきゅっとしまった靴を見て、うっとりします。
このとき、アイナーの中で、封印されていた何かが、そっと鍵を開け、二度と戻らない旅に出てしまったことなど、知りもしないゲルダは、アイナーに、女装姿が似合うことを喜び、彼女の絵のモデルの踊り子、ウラは、“彼女”に、自分がもらった白い百合の花束を渡し、「あなたはリリーよ」、と言います。
名前を与えられた「リリー」は、「アイナー」の命とエネルギーが逆流するように、現実的で、確かな存在になっていきます。
はじめは、遊び半分でパーティに連れて行ったり、はしゃいでいたゲルダも、やがてアイナーが本気で「リリー」になろうとしているのを知り、愕然とします。
「アイナーを返して」
それは、アイナーを、自分の身も心もつかって、本当に愛していたゲルダの、悲痛な叫びでした。
アイナーは、男性でいるときにも、優しい、やわらかい色の服しか身につけなくなり、身のこなしやしぐさまで、女性らしくなっていきます。
それを見た見知らぬ男たちは、アイナーをからかい、気持ちの悪い奴だと言って傷つけ、殴りつけます。
ゲルダは、(精神不安定からでしょう)体調の優れないアイナーを助けようと、医師に相談するのですが、つらい放射線治療を受けさせられたり、統合失調症と診断され、あやうく強制的に入院させられそうになるだけでした。
しかし、どんなつらい思いをしても、あるいは、つらい思いをすればするほど、「アイナー」の影は薄くなっていき、「リリー」でいる時間が長くなっていきます。
一度だけ、ゲルダのために、アイナーの姿に戻りますが、それは、自らの想いに反した行為であり、顔色は青白く、まるで幽霊のように生気のない姿でした。
もう、愛する夫、アイナーは、戻らないかもしれない。
苦悩するゲルダは、過去、アイナーにキスしたというアイナーの幼なじみの男性、ハンスに相談します。
そして、単に女装するだけではなく、身も心もリリーに(女性に)なりたいというアイナーの思いを理解し、手術という解決策を示してくれる医師に出会います。
けれども、まだ性別適合手術の成功例のない時代、その道のりは、大変な危険に満ちたものでした。
それでも、リリーは、「アイナーを完全に消す」ことを望み、ゲルダは、夫を失うことに動揺と葛藤を感じながらも、アイナー/リリーのそばに、寄り添わずにはいられないのです。