『ジェイコブス・ラダー』(2)
「死」からはじまる「生」の物語
以下、ネタバレを含みますので、ご注意ください……。
この映画で、“現実”として流れているのは、主人公ジェイコブが、戦場で致命傷を負ってから、ヘリで野戦病院に運ばれ、様々な処置を受けた末に、死をむかえるまでの時間なのだと思います。
つまり、ジェイコブの身体は、生から死への過程をたどっており、同時に、彼の精神は、死の恐怖による混乱と、それまでの人生と生活、感情や記憶などの混沌を経て、「死」を受け容れるまでの過程をたどっているといえるでしょう。
彼が、「ニューヨークで生きている」時間軸では、アメリカ国防省の陰謀説(ベトナム戦争中、兵士の殺戮能力をあげるため、密かに幻覚剤を摂取させていた、という説。X-ファイルでもおなじみです)、そして、ジェイコブと同じように、何ものかに怯え、後遺症らしきものに苦しむ仲間とともに、軍を訴えようとする話、その真実を知るものの存在(その薬“ラダー”の効果を、サルの実験で確認し、人間に使用した結果、相討ちをはじめ、人間の残酷さを知った、と、もと科学研究班だったという男がジェイコブに語る)などの話が織り交ぜられています。
現実か、それとも、幻想か、という謎かけだけではなく、この話が、二つの世界の間をつなぐもの(あるいは、「映画」という映像芸術作品に込められた、一種の社会的メッセージ)として、設定されているのかもしれません。
そして、もう一つ、重要なのは、ジェイコブがベトナム戦争へ行く前に事故で亡くなった、末の息子「ゲイブ」の存在です。
アメリカには、天使信仰・悪魔信仰の文化がある、ときいたことがありますが、この映画には、天使と悪魔、それぞれをイメージさせる人物が登場します。
たとえば、ジェイコブのかかりつけの整体師ルイは、ジェイコブによって、「ケルビム(智天使)のようだ」と言われ、彼は、物語の後半、ジェイコブが、荒廃した精神病院の廊下を、そこいら中に転がっている肉塊を踏みながら、ストレッチャーで連れていかれた病室から、彼を救い出します。
おそらくは、現実の場面では、重体のジェイコブを蘇生させようと、あれこれ肉体に苦痛をもたらす治療がなされていたのでしょう。(彼が実際に受けた深い刺し傷のせいで高熱を出し、幻想のシーンで、彼を氷風呂に入れたジェジーも、この場面に登場します)。
ルイは、そのような残酷な処置から、ジェイコブを解放します。
そして彼は、治療の際、必ず、こんなふうに言います。
「力を抜いて」。
死に抗い続ける限り、悪魔が苦痛とともに生命を奪おうとし、受け入れようとすれば、悪魔は天使になり、おだやかに死を迎えることができるようになる、と、彼は言うのです。
一方で、ジェイコブが同棲する、郵便局員の女性、ジェジーは、悪魔的な魅力でジェイコブを惹きつけ、彼女は、聖書にちなむ名前を嫌って、ジェイコブの二番目の息子「イーライ」を、名前で呼ぼうとはしません。
物語がすすむとともに、彼は、おそれたり、驚愕したり、追っ手から逃れたり、幻想と現実の入り混じった時間の中を、紆余曲折を経て、死を受け容れていくのですが、おそらく、彼が受け入れられないでいるのは、自分の死だけでなく、ゲイブの死についても同様だったのだと思います。
ルイの、最後の治療が終わると、ひどい背中の痛みに悩まされていたジェイコブは、ようやく、一人で立つことができるようになります。
自宅へ戻ったジェイコブを待っていたのはゲイブで、まだ幼い彼の姿は、天使そのものであり、最後に死を受け入れた彼を、階段をのぼって「上へ」と導きます。
そのとき、彼は、現実の世界で、「力尽きて」、死んでいくのです。
《(3)へ つづく》
『ジェイコブス・ラダー』(1)
「地下鉄」ー暗闇と無意識、魑魅魍魎の世界
地下鉄に乗ろうとして、階段を下っていくと、いつも、かび臭いような、湿った風が吹いてくるのを感じます。
その匂いを嗅いだときから、再び地上へ出るまでの間、本当は、人間の領分ではない場所にいるような気がして、少し、心細く感じます。
ホームに立って、ぽっかりあいた暗いトンネルをみつめていると、ふと、時計を確認したくなるときがあります。ぼんやりしている間に、どのくらい時間が経ったのか、あとどのくらいで電車が来るのか、気になるのは、そんなところですが…。
時々、あの、ごくシンプルなつくりの時計が、知らない間に、少し早く進んだり、遅くなったりしても、きっとわからないだろうな、と思うことがあります。
そういうことを、考えはじめれば考えはじめるほど、あの、ものすごく飾り気のない文字盤が、飾り気がないだけに、よけいにそういうものらしく思われてきたりもするのです。
地下鉄、という乗り物は、よく、物語の中で、あの世とこの世を結びつけたり、乗客を、違う世界へ運び去ったり、この世のものでない(既知のものではない)“乗客”が紛れ込んでいて、こちらをじっと、みつめていたりします。
むかし、この映画がテレビで放映されたとき、戦場の凄まじい地獄絵図と、主人公、ジェイコブが地下鉄の中で話しかけた乗客の、異様な目つきだけでこわくなり、途中で見るのをやめてしまいました。
刺激の強い映画を見ると、私の頭は、現実とそうでないものを混同してしまうらしく、何日間か、映画の世界の空気が、身のまわりにずっと漂い続けることがあります。
たとえば、映画を見終わって、外へ出ても、映画の内容が暗く、深刻なものだったりすると、外はどんなに晴れていても、どこか暗く、空気が冷たく感じられたり、場合によっては、部屋の隅の暗い部分や、建物の影に、何ものかが潜んでいるように感じたり、うしろから、何ものかが追ってくるような気がすることもあります。
私が、それだけこわがりだということなのでしょう。
けれども、今では、DVDでよく映画を見るようになったせいか、あるいは、年を取ったせいで、現実とそうでないものの線引きがしっかりしてしまったせいか、よほど刺激がきつめのものでも、だいたい平気で見ることができるようになってしまいました。
少し、残念に感じます。
ところで、私は、たしかにこわがりなのですが、たとえばテレビで、幽霊や、怪奇現象など、こわい番組を見ると、そのときは大丈夫でも、お風呂に入って髪を洗ったりしているときにこわくなる、という話を、よくききます。
髪を洗うときには、いつもよりも背中が無防備だというのと、目を閉じていたりするので、目が開いているときよりも、想像力が働きやすくなるせいなのかもしれません。
「何かが、追ってくる」、「何かに、追われている」、というのは、おそらく、人間が、強い恐怖を感じやすい状況の一つなのではないかと思います。
この映画の中でも、戦争が終わって帰ってきたはずのジェイコブを、様々なものが追ってきます。それは、列車や車だったり、軍の関係者だったり、この世のものではない“怪物”だったりします。
映画がすすむにつれ、それが、ジェイコブに限ったことではなく、彼の戦友たちもまた、同じような恐怖を感じている、ということがわかってきます。
ジェイコブひとりだけならば、彼の妄想の可能性が疑われますが、何人か、他の人間も同じような目に遭っているならば、こっちが真実かもしれない、と、観客は思いはじめることでしょう。
そのような仕掛けによって、観ている側は、戦争と戦場の世界、妻と別れて郵便局で働く女性と同棲する世界、あるいは、離婚しておらず、妻や子どもたちと生活する世界、そして、「亡くなった」はずの末の息子ゲイブがいる世界、いくつかの世界を、パラレルワールドのように行き来する彼の目線で、いったい何が現実なのかわからないままに、この映画を楽しむことができるのだと思います。
《(2)へ つづく》
裏切られた青年のためのおとぎ話 「真実は井戸の底に」第18話(最終話)
そのとき、姫の心にあったのは、あのなつかしいオオワシのことだけでした。
姫の願いは、ただ一つでした。もう一度、あのオオワシに会いたい、そうして、そのそばで、何も考えずに眠りたい、それだけでした。
そうなのです。姫にとって、自らおもむくべき場所は、愛しいオオワシと出会った、あの森の古井戸しかありませんでした。
姫は、疲れた足どりで、城からの一本道を下り、村を通り抜け、森の泉のほとりにたどりつきました。
そして、古井戸の淵にたたずみ、はるかに深く、遠い井戸の底を、じっとみつめました。
そこには、何の音も気配もしませんでした。あのオオワシは、姫を助けるために、命を落としてしまったのに違いありませんでした。
オオワシが、傷ついた翼に自分を乗せ、井戸の外まで運んでくれたのは、つい数日前のことでした。
それなのに、あれからもう何十年ものときが立ってしまったかのように感じられました。その間、なんとさまざまなできごとが、姫をおそったことでしょう。
姫の心は、どうしようもなくかなしい気持ちでいっぱいでした。
自らの思いを伝えようと、精一杯の勇気を出したのに、父も母も、姫の言葉を、信じてはくれなかったのです。
それに、自分だけが唯一の、この国に対して責任をもつべき存在であると信じていたのが、それも違いました。
父は、不義をおかしていたのです。そうして何より、父や母にとって必要なのは、本当の姫である自分ではありませんでした。いまや、あの偽者の姫こそが、父と母にとって、本当の娘のように、大切な存在になっていたのです。
そのとき、姫をつけてきていた男が、ついに、姫の前に姿を現しました。その者は、手に長い剣を持って、姫の心臓を貫こうと、近づいてきたのです。
しかし姫は、その少し前に、心を決めていました。
次の瞬間、姫は、ためらうことなく、古井戸の中に、身をおどらせました。
姫のからだは、あのとき、オオワシが落ちていったのと同じように、闇の中を、真っ直ぐに、落ちていきました。
あとには、何の物音もなく、あたりはしんと静まりかえるばかりでした。
若い側近は、偽の姫の言いつけどおりに、自らの手で魔物を殺すことができなかったことを、とても残念に思いました。
そこで、戻ってから、偽の姫を喜ばせたい一心で、多少の脚色をほどこして、この顛末について報告しました。
自らの剣が、確実に魔物の心臓を貫いたことを証明するために、森でみつけた小さな動物を殺して、剣の先に血を塗り、それを見せました。
すると、偽の姫は、たいそう満足し、この若い男を、さらに特別に取り立ててやりました。
それからのち、その国はどうなったのでしょうか。
本当の姫の消息がわからなくなってから、半月も立たないうちに、偽者の姫と隣国の末王子の婚礼の儀が、華やかに執りおこなわれました。
そののち数年間は、国は、まるで伏せられた真実のように、上辺だけの、派手な繁栄に恵まれました。
しかしその後、はっきりした理由もなく衰退しはじめたかと思うと、いつの間にか、すっかり滅びてしまったのでした。
それについては、こんな逸話が残っています。
あのいまわしい森の古井戸を、取り壊してしまうようにとの命令を受けて、お城の家来たちが、井戸のふちに、つるはしを振りおろしたとたん、突然、古井戸の中から、どうどうと、大きな音を立てて太い水柱が噴きあがり、それが、あっという間に怒濤のような流れとなって、ついには、国全体を飲み込んでしまったというのです。
あるいはまた、姫が身投げした古井戸から、二羽の立派で美しいオオワシが飛び立つのを見た、という者もいます。
しかし、何と言ってもいまはむかし、その国が失われてから、もうずいぶん長い時間が立ってしまったので、事実がどうであったのか、それを知る者は、誰もいないということです。
《おわり》
裏切られた青年のためのおとぎ話 「真実は井戸の底に」第17話
召使いは、城にとどまろうとする姫を懸命に説得しつつ、失礼を承知の上で、むりやりに姫の手を取って、先へと進みました。
姫の足は、引っぱられるまま、力なく、前へと進みました。
「真実は、いつも、人間に遠い」。
姫は、オオワシの言葉を思い出しました。そして、どうしようもない苦しみに、じわじわと、胸をしめつけられるばかりでした。
そうして、姫と召使いは、とうとう、城壁の外へ出るあの石の前まで来ました。
召使いの男は、そこを開け、何か困ったことがあったら、いつでも自分の息子が力を貸すので、必ずたずねてほしいと言いました。
しかし姫は、城壁の内側から外側へと自分を送り出してくれた召使いの手を取り、真剣なまなざしで、こう告げました。
「どうか、よく聞いてください。大切なお願いがあるのです。あなたはすぐに村へ行き、あなたの息子さんとともに、なるべく早く、この国を出てください。わたくしを助けてくださったあなたと、あの信頼すべき、わたくしの可愛いお友だちには、それこそ、どうしても、生きていてほしいのです。でなければ、わたくしも、到底生きていくことはできないでしょう。」
召使いは、姫の気持ちに心を打たれ、言うとおりにすることを約束しました。
そして、それならば、ぜひ、姫にも一緒に来てもらいたいと言いました。
姫は、その親切な申し出に厚く礼を言いましたが、自分には行くべきところがあるからと言って、その誘いを丁重に断りました。これ以上、自分のことで、彼ら親子に負担をかけたくなかったのです。
この先、追っ手に追われることになったり、みつかってしまったときには、大変な迷惑がかかってしまいますし、また、村人の懐が、どんなに余裕のないものかも、いまの姫には、よくわかっていました。
そこへ、自分のような、何の役にも立たない者がついていって、煩わせるわけにはいかないと思ったのです。
召使いは、姫に言われたとおり、姫を送り出したその足で使用人部屋へむかい、こっそりと身仕度をととのえると、すぐ村へ行き、その晩のうちに、息子とともに村を出ました。おかげでこの親子は、追っ手が迫る前までに、無事、国をあとにすることができました。
一方の姫は、自分のあとからひたひたと近づいてくる者に、まだ気がついていませんでした。
《第18話(最終話)へ つづく》
裏切られた青年のためのおとぎ話 「真実は井戸の底に」第16話
ですが、姫も、姫を助け出した召使いも、当然、そのことを知りませんでした。
ふたりは、しばらくの間沈黙し、いくつもの小径や隠し部屋を通って、さらに遠くへ、遠くへと逃げることに集中しました。
そして、安全なところまで来ると、姫は、召使いに話しかけました。
「あの者は、いったい何者なのでしょう?わたくしに瓜二つの顔をもつ、あの者は。」
召使いは、何かを言いかけて口を閉じ、それからまた、口を開きました。
「姫さま。姫さまは、そのことを、本当に、お知りになりたいとお思いですか。」
「ええ。本当に、知りたいのです。ずっと、疑問に思っていたのです。血のつながりもないというのに、わたくしと、瓜二つの顔をもつ者が、この世に存在しうるのだろうかと。」
「たとえばその事実が、姫さまにどんな衝撃を与え、またどんなにうちひしがれることになろうと、それでもお知りになりたいのですか。」
「そうです。わたくしは、このままでは、本当にここを去ることができないような気がするのです。」
召使いは、少しの間、ためらっていましたが、やがて話しはじめました。
「むかし、家来や召使い、女中たちの間で、かたく口止めされたことがありました。それは、ある一人の女中と、……王さま、つまり、あなたさまのお父さまとの関係についてです。王さまは、ある美しい女中を見初められ、もちろんお后さまにも、誰にも内緒で会っていました。そして、そのうちに、女中は、いつの間にか城を去っていましたが、わたくしたちには、わかっていました。その女中は、王さまの子を身ごもったために、大金でも持たされて、暇を出されたのだろう、と。」
姫には、それがどういうことか、よくわかりました。
この事実は、確かに、姫に大きな衝撃を与えました。
父が、母を裏切っていたということを、そのままに受けとめるには、たくさんの時間が必要なように思われました。
けれども、それと同時に、さっき彼が言ったことの意味もわかりました。
城はもはや、自分がいるべきところではないとは、まさに、そのとおりだったのです。
母親こそ違えども、父親を同じくする、つまり、この国の王の血を継ぐ娘が、自分だけではなく、もうひとりいたということは、自分だけが、国の運命に責任を負うべき唯一の存在ではないということになるのです。
そう思ったとき、一歩一歩、前へ向かって進んでいた姫の足が止まりました。
「姫さま?」
召使いは、驚いて言いました。
姫は、言いました。
「わたくしは、やはり、戻ります。あなたのご好意には、本当に、感謝の言葉もありませんし、ご恩は決して忘れません。ですが、このことで、あなたが罪に問われないとは思われません。それに、かりにも、お父さまの血を継いだ者が、いまや姫となっているのです。その者が、わたくしのかわりに結婚したとしても、国の未来については、何の問題もないはずです。ならば、せめて、父と母に殺されるのが、わたくしに残された、たった一つの、大切なつとめなのではないのでしょうか。」
姫の言葉を聞いた召使いは、とても悲しい顔をしました。
「ああ、ですから、事実をお伝えするのが躊躇されたのです。幼いころから、あなたさまはそうでした。お言葉は少なく、その分、お心の底には、とても言葉などではあらわしきれないほどのお気持ちと、ご意志をおもちでした。そのようなお方が、魔物として葬り去られ、何の真実も明かされぬまま、偽者がこの国の舵を取るとなれば、それは、正しいことではありません。ですから、姫さま、たとえお城ではなくとも、あなたさまには、どこかで生きていていただきたいのです。あなたさまのようなお方が、実の親に殺されることなど、絶対に、あってはなりません。それは、王さまとお后さまの罪を、重くしてしまうことにもなります。あるいは、そんなことになってしまっては、わたしは、息子に顔向けできません。」
《第17話へ つづく》