他人の星

déraciné

『ジェイコブス・ラダー』(1)

 「地下鉄」ー暗闇と無意識、魑魅魍魎の世界

 

 地下鉄に乗ろうとして、階段を下っていくと、いつも、かび臭いような、湿った風が吹いてくるのを感じます。
 その匂いを嗅いだときから、再び地上へ出るまでの間、本当は、人間の領分ではない場所にいるような気がして、少し、心細く感じます。

 

 ホームに立って、ぽっかりあいた暗いトンネルをみつめていると、ふと、時計を確認したくなるときがあります。ぼんやりしている間に、どのくらい時間が経ったのか、あとどのくらいで電車が来るのか、気になるのは、そんなところですが…。

 

 時々、あの、ごくシンプルなつくりの時計が、知らない間に、少し早く進んだり、遅くなったりしても、きっとわからないだろうな、と思うことがあります。

 そういうことを、考えはじめれば考えはじめるほど、あの、ものすごく飾り気のない文字盤が、飾り気がないだけに、よけいにそういうものらしく思われてきたりもするのです。

 

 

 地下鉄、という乗り物は、よく、物語の中で、あの世とこの世を結びつけたり、乗客を、違う世界へ運び去ったり、この世のものでない(既知のものではない)“乗客”が紛れ込んでいて、こちらをじっと、みつめていたりします。

 

 

 むかし、この映画がテレビで放映されたとき、戦場の凄まじい地獄絵図と、主人公、ジェイコブが地下鉄の中で話しかけた乗客の、異様な目つきだけでこわくなり、途中で見るのをやめてしまいました。


 刺激の強い映画を見ると、私の頭は、現実とそうでないものを混同してしまうらしく、何日間か、映画の世界の空気が、身のまわりにずっと漂い続けることがあります。

 たとえば、映画を見終わって、外へ出ても、映画の内容が暗く、深刻なものだったりすると、外はどんなに晴れていても、どこか暗く、空気が冷たく感じられたり、場合によっては、部屋の隅の暗い部分や、建物の影に、何ものかが潜んでいるように感じたり、うしろから、何ものかが追ってくるような気がすることもあります。

 

 私が、それだけこわがりだということなのでしょう。

 

 けれども、今では、DVDでよく映画を見るようになったせいか、あるいは、年を取ったせいで、現実とそうでないものの線引きがしっかりしてしまったせいか、よほど刺激がきつめのものでも、だいたい平気で見ることができるようになってしまいました。

 少し、残念に感じます。

 

 ところで、私は、たしかにこわがりなのですが、たとえばテレビで、幽霊や、怪奇現象など、こわい番組を見ると、そのときは大丈夫でも、お風呂に入って髪を洗ったりしているときにこわくなる、という話を、よくききます。

 髪を洗うときには、いつもよりも背中が無防備だというのと、目を閉じていたりするので、目が開いているときよりも、想像力が働きやすくなるせいなのかもしれません。

 

 「何かが、追ってくる」、「何かに、追われている」、というのは、おそらく、人間が、強い恐怖を感じやすい状況の一つなのではないかと思います。

 

 この映画の中でも、戦争が終わって帰ってきたはずのジェイコブを、様々なものが追ってきます。それは、列車や車だったり、軍の関係者だったり、この世のものではない“怪物”だったりします。

 

 映画がすすむにつれ、それが、ジェイコブに限ったことではなく、彼の戦友たちもまた、同じような恐怖を感じている、ということがわかってきます。

 ジェイコブひとりだけならば、彼の妄想の可能性が疑われますが、何人か、他の人間も同じような目に遭っているならば、こっちが真実かもしれない、と、観客は思いはじめることでしょう。

 

 そのような仕掛けによって、観ている側は、戦争と戦場の世界、妻と別れて郵便局で働く女性と同棲する世界、あるいは、離婚しておらず、妻や子どもたちと生活する世界、そして、「亡くなった」はずの末の息子ゲイブがいる世界、いくつかの世界を、パラレルワールドのように行き来する彼の目線で、いったい何が現実なのかわからないままに、この映画を楽しむことができるのだと思います。

 

 

                             《(2)へ つづく》