他人の星

déraciné

裏切られた青年のためのおとぎ話 「不幸せな王子」第7話(最終話)

 

 娘は、自分を誘ってくれた王子の気持ちに感謝しつつ、馬に乗り、王子の後ろに従っ

て、雨あがりの森へ行くことにしました。

 

 森の中は、この上なく美しい輝きに満ちていました。

 長雨に洗われた木々も、草花も、ふくいくとした香りに満ちて、黒々とした木々の枝

は、救いを求めるように、葉の隙間からさす陽光を受け入れて、力強く光りました。

 

 「森が、こんなに明るいことも、めずらしい。」

 

 そう言いつつも、王子が、少しもうれしそうでないのを、娘は、不思議に思いました

が、馬の背に乗り、散歩する楽しさは、格別のものでした。

 

 「うまく、隠しただろうな。もし失敗などしたら、ただではおかないぞ。」

 

 二人の距離が、少し離れたとき、王子は、独り言のようにつぶやきました。

 娘の耳に、その小さな声は、届きませんでしたが、自分の馬の方が、少し進みすぎて

いるのに気がつきました。それで、うしろをふり向くと、王子と目が合いました。

 すると、王子は、前方を指をさして、言いました。

 

 「ごらん、あそこに、野バラがたくさん咲いている。」

 

 王子が指さした場所には、たしかに、純白の、可憐な野バラが群生して、咲きほこっ

ていました。

 

 「まぁ、なんて美しいこと………」

 

 娘は、夢中で、馬の歩を進めましたが、そのとき、野バラたちが、急に吹いてきた強

い風に、ざわざわと、騒ぎはじめたのです。


 そのせいでしょうか。娘の乗った馬は、その茂みをはなれ、木々の奥に見える、翡翠

色の泉の方へ、まっすぐ歩いていきました。その色の、あまりに深遠なようすに、娘が

心を奪われていると、うしろで、馬のいななき声と、ギャッ、という悲鳴が聞こえまし

た。


 娘は、ぎょっとして、馬の手綱を引き、ふりかえりました。すると、この陽気で、す

っかり乾いたかに見えた森の道で、王子の馬と王子が、泥まみれになって、ひっくり返

っているのが見えました。

 

 娘は、何が起きたのか、よくわからないまま、馬からおりて、王子のもとへ、走り寄

りました。王子の馬の脚には、銀の金具のようなものが、深くくい込み、その痛みの衝

撃で、馬はすでに、死んでいるようでした。王子の頭からは、血が流れ、泥水と混じり

あって、赤黒い水たまりをつくっていました。

 

 王子の顔は、苦痛と憎しみ、怒りに満ちていました。

 その唇は、必死で、何かを言おうとしていました。娘は、王子の声を聞こうと、耳を

近づけましたが、その言葉を聞いたとき、体中の血が、凍りつくように感じました。

 

 「おまえが、死ぬはずだったのに。」

 

 王子は、たしかに、そう言いました。

 

 娘は、驚愕と恐怖のあまり、息をするのさえ、忘れそうでした。

 

 木々の緑のみずみずしさも、鳥や虫たちを誘う花の香も、娘には、何も感じられませんでした。

 

 そうしているあいだにも、王子のからだは、どんどん冷たくなっていきました。何

か、ひどくおそろしいものでも見たように開かれた目は、じっと、娘を凝視したままで

した。

 

 娘の目には、悪意ある、鋭い歯に挟まれた、馬の足が映っていました。王子の最期の

言葉は、呪いのように、娘の心を、きつく縛りつけていました。

 

 四日間降り続いた雨が、森の道にぬかるみをつくり、そこへ足をとられた王子の馬

が、偶然にも、ワナにはまりこんでしまったのでした。

 

 

 「ああ、きいておくれ。どうか、助けておくれ、誰か。わたしの声が、きこえるものがあるのならば。」

 

 ついさっき、あんなに風が吹いたのが不思議なほど、枝葉は、かすかにもゆれません

でした。そこにあるのは、娘の声に、じっと耳を傾けるかのような静寂だけでした。

 

 「わたしは、わたしが、かなしくてならない。人という器も、苦しくてならない。わ

たしの声を聞くものに、わたしのすべてを、捧げよう。いのちも、からだも、どうか、

望みのままに。」

 

 娘の頬を、いく筋も、涙がつたい落ちました。

 

 すると、再び風が吹きはじめました。

 しかし、それは、王子の馬を、死の淵まで案内した、あの風とはちがいました。

 娘の涙を、やさしくぬぐい、両の頬を、あたたかい手の中に包み込むようでした。

 

 

 その後、娘がどこへ行ったのか、誰も知る人はありません。

 同時に、あの泉もまた、誰の目にもそれとわかる場所から、消えてなくなってしまっ

たのです。

 

 それを、不幸な王子の恨みだとか、不遇な娘の呪いだとか、多くの人々は、さまざま

に言って、こわがりました。実際、王子が行方不明になり、さがしにきた家来たちの馬

が暴れ、次から次へと落馬して、命を落としたとか、雨の降る暗い日には、誰かの泣き

声が聞こえてくるとか、おそろしいうわさが絶えませんでした。

 

 けれども、その泉は、水を飲んだり、憩いにやってくる獣たちには、いつもひらかれ

ていました。そして、その泉のほとりに咲く花たちは、森のどこよりもいっそう、美し

い色で咲きほこりました。

 

 いまも、その翡翠色の泉は、不吉なうわさを信じないものだけに、そっと道をひらく

のです。そして、ほんのいっとき、おだやかな夢と眠りとをあたえ、生の疲れを癒した

かと思うと、またどこかへ消えてしまう不思議な泉として、旅人たちの間で語りつがれ

る物語になった、ということです。

 

                              《終わり》