他人の星

déraciné

「大人とは、裏切られた青年の姿である。」(1)

 「大人というものは侘しいものだ。愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだろう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎるからである。人は、あてにならない、という発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。」

                              太宰治津軽

 

 大人になるとは、どういうことだろう、と、以前は、もう少し真剣に考えていたような気がします。

 以前、というのは、「もうそろそろ大人になってもいいだろう」、「いい加減、大人になれ」、のプレッシャーが、社会的な意味で感じられる頃ですから、具体的には、二十代から三十代くらいまでの間のことだったと思います。

 

 私の場合、「もうそろそろ大人に……」を感じたのは、同級生の友人たちの言動によってでした。

 

 高校時代の友人たちは、みな、それぞれに進学や就職を決めたあたりから、それぞれの「おとな像」へ向かって、若さ特有の一途さと真面目さでもって、邁進しはじめました。

 そのありさまは、もともと潜在下に用意されていたものが、その時期になって、条件がそろい、自動的に動き出したプログラムか何かのようでした。

 

 たとえば、専門学校を経て、就職へとすすんだ友人は、自分が「社会人」となったことに誇りを感じていたようで、そのときまだ学生の身分だった私が、かなりのんきに見えたようでした。

 

 実際、私は、のんきだったのだと思います。

 「明日」、という日に、なぜか、異様なくらいのおそろしさを感じていた(いまもそうですが)私には、「今日」という日の一歩を考えるくらいの余裕しかありませんでした。

 

 そんなわけで、実は、心の中は結構な“疾風怒濤”だったのですが、表面的には、ずいぶんのんきに見えたのだろう、と思います。

 

 また、理数系の大学へすすんだ友人は、真剣に「恋」に悩み、心身ともに占領されて、そのこと以外は何も考えられないようでした。

 今日でも、社会的には、結婚して家庭をもてば一人前、という考えは根強く残っていているようで、だからこそ、「ちゃんとしたい」という意識的、無意識的な意識によって、自分にふさわしい相手を見極めようとするがゆえ、「こんなはずじゃないのに…」という「うまくいかなさ」を、強く感じてしまうのかもしれません。

 

 つまり彼女は、おとなになりゆく過程にある自分を、真剣に悩んでいたのでしょう。

 

 私は、そこらへんも微妙でした。身近な異性に熱を上げた経験がなかったのです。

 

 「大人になるには、結婚か、就職しかない」と、大学で、ある先生に言われたときには、一瞬、唖然とし、やがて、頭と胸の両方で、じわじわと、悲鳴が広がっていくのを感じました。

 

 よくはわかりません。

 ああ、おしまいだ、悲劇的だ、という感じがしただけでした。

 

 以前ほど、「おとな」とは?とあまり考えなくなった(…と、いうよりも、おそらくもう、そんなことを考えるには手遅れだと、どこかで感じて、やめてしまったか、いやになってしまっただけかもしれません)いま、漠然と思っているのは、おとなと子どもでは、さしたる違いはないのではないか、ということなのです。

 

                         《(2)へ つづく》