他人の星

déraciné

「わたし」は何からできているのか? ー映画『ゴーン・ベイビー・ゴーン』から(1)

 

   “人間を形づくるのは 自分以外の何かだ

   住む街 隣人たち 家族……

   肉体が 魂を包み それを街が包み込む”

                映画『ゴーン・ベイビー・ゴーン』2007年 アメリ

 

 

 映画冒頭の、モノローグです。

 何年か前に、DVDを借りて見て、印象に残った言葉だったので、それだけを書きとめておきました。 

 細かいところは覚えていないのですが、子どもを放任する実の母親に育てられるのと、愛情あふれる他人に育てられるのとでは、子どもにとって、どちらが幸せなのか?というのが、主要なテーマの一つだったように思います。

 

 私が、この映画から感じたのは、いつの時代にも、「親」という大人も、その周りの大人たちも、社会全体も、子どもの養育や教育をめぐっては、ほとんど赤子同然になってしまうのではないか、ということでした。

 

 私は、自分の中で、どちらがいい、という答えを出せず、いまに至っています。

 

「虐待」=abuseの原義

 ところで、日本では、児童虐待を、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(養育の放棄、怠慢)、心理的虐待の四つに分類しています。

 この基準からいえば、映画に出てくる母親は、ネグレクトに該当するわけですが、そもそも「虐待」とは、どのようなことなのでしょうか。 

 

 虐待をする親というのは、決して子どもが憎くて虐待するのではない、と学んだことがあります。

 日本語の「虐待」は、英語のabuseを訳したものであって、abuseの原義はab-use、つまり、child abuseとは、もとは「正しくない子どもの使い方」という意味であって、「親が子どもに暴力をふるう」というような、単純な意味ではないのだそうです(若林慎一郎他著『精神保健』ミネルヴァ書房,2001年)。

 何が「正しくない」のかというと、通常は、子どもが成長していく過程で、親が子どもの必要や欲求を受け入れ、満たす役割を果たすのに対して、abuseの場合、親子の役割が逆転し、子どもが親の必要や欲求を受け入れ、満たす役割を果たしている、と理解されるのです。

 子どもが大人になるために、一番最初に達成しなければならない課題は、エリクソンによれば、自分や人間全体、将来への「基本的信頼感」であり、そのため、子どもはやりたい放題わがままを言って親に甘え(つまり、「ありのままの自分を受け入れてくれ」、というメッセージです)、それがある程度満たされると、心の中によりどころができ、安心して、外の世界へ探索を広げていくことができるようになります。

 

 それが、虐待abuseの場合には、逆に親が、「ありのままの自分を受け入れてくれ」という意識的・無意識的欲求(=甘え)を、弱い存在である子どもに押しつけ、結果的に、子どもへの暴力、あるいは養育放棄となってしまうのです。

 子どもは親にとって「他人」などではなく、いわば自分の分身のような存在であり、だからこそ、適切な距離がとれず、こうした事態は、むしろよく起こりうることなのではないでしょうか。

 

 このabuseの原義に照らしても、映画の母親(へリーン)は、「子ども」(4歳のアマンダ)という、まだ自分が世話をすることが必要な存在がいるにもかかわらず、自分のやりたいことを優先させているわけですから、役割が逆転して、親が子どもに甘えているケースといえるでしょう。

 

 せっかく戻ったアマンダをおいて、デートに出かけていくへリーンは、さながら、悲しみとあきらめと無気力入り混じった母親を残し、少し危険な香りのする遊びへと、嬉々として出かけていく、思春期の少女のようにも見えます。

 

                             《(2)へ つづく》