他人の星

déraciné

『シン・ウルトラマン』(2)

 

 

 「このお話は遠い遠い未来の物語なのです。え?何故ですって?我々人類は今、宇宙人に狙われるほどお互いを信頼してはいませんから」

 

                    『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」

 

 

 

 “見返りウルトラマン”は、なぜ、「地球人とコミュニケートする意志」をもつに至ったのでしょうか?

 

 それは、主人公神永新二が、怪獣ネロンガの攻撃によって、今しも命を落としかけていた子どもを、「自己犠牲」によって救ったのを見たからなのでしょう。

 

 子どもの代わりに命を失った新二は、ウルトラマンの命を与えられ、よみがえりますが、人間・神永新二と、異星人ミックスの神永新二では、明らかに、表情や態度に違いが出てきてしまいます。

 

 

 印象的だったのが、新二が自分の分のコーヒーだけを持って席に着く場面でした。

 

 向かいの席にいた新二のバディ、浅見弘子は、新二の行動に、不満をぶつけます。

 

 そういうときは、バディの分も一緒に持ってくるか、あるいはせめて、「コーヒー飲むか?」ぐらい、声をかけるものだろう、と。

 

 

 これに対して、新二は、生命というものは自己完結しているのであって、そうした意思決定や行動に関して、相互干渉の義務はない、というような意味合いの言葉を返します。

 

 つまり、他人がコーヒーを持ってきて飲もうとするのを見て、自分も飲みたいと思ったのなら、勝手に持ってきて飲めばよい、ということなのでしょう。

 

 そんな新二に、浅見は言い返します。

 

 たとえば新二がいま飲んでいるコーヒーも、着ている服も、他人がつくってくれているものであって、私たちは、他人の世話にならなければ生きていけない存在なのよ、と。

 

 のちに、新二は、バディや仲間の何たるかを理解し、人間を、“弱くて、群れる生きもの”として、愛おしく感じ、異星人の攻撃や戦略的利用から守ろうと思うようになるのです。

 

 

 たしかに、浅見弘子の言っていることは、正論だと思います。

 

 私たちの社会は、もはや、狩猟や農耕を中心とする自給自足の社会ではなく、相互依存社会であり、衣服一つとっても、布地を作る人、デザインを考える人、それを縫製する人、それを店まで運ぶ人、最終的に商品として売る人がいてはじめて、私たちは、服を買い、着ることができます。

 

 そうした意味で、私たち地球人は、たしかに、他者の手を借りることなしには生きられない、相互依存的な生命体です。

 

 

 けれども、私は、思ったのです。

 

 そう、私たちは、真実、他人の世話にならなければ生きていけない存在だ。

 けれども、その現実と、「自分がコーヒーを飲むときには、(ついでに)他人の分も一緒に持ってくる」という行動は、どう結びつくのか?と。

 

 

 

“この弱い、群れる生きもの”

 

 

 「自分がコーヒーを飲むとき、その場にいる人の分も一緒に持ってくる」。

 

 こうした行動は、「社会的行動」と呼ばれ、ヒトという生命体に生まれた子どもは、他人とうまくやっていくために必要不可欠な“社会性”の能力として、親やまわりの大人から、必死に教え込まれます。

 

 え?何故ですって?

 

 この地球という星の、ヒトという生命体は、思いやりや利他心にあふれた存在だと、宇宙でも大評判だからです!

 

 ……というのは、冗談として。

 

 

 同種同類が天敵、という、ひどく物騒な人間社会の中で、自らの身を守るためです。

 

 

 ヒトは、どんなときも、コミュニケーションせずにはいられない生きものです。

 何気なくとった行動が、何らかの意味をもつメッセージとして、知らず知らずのうちに発信され、受信される、というプロセスを、私たちは日々、意識的、無意識的に繰り返しています。

 

 

 たとえば、職場でのコーヒー・タイムで、そばにいる人にコーヒーをもっていかなかった場合、相手は、「無視された」、「嫌われている」、あるいは、浅見弘子のように、「礼儀がなっていない」、と思うかもしれません。

 

 あるいは、行為者が、ついうっかり、「自分の分だけコーヒーを持って」きてしまった場合、空気に敏感な人ほど、何だか取り返しがつかないことでもしたような気がして、「どう思われたかな?」と、あとでうじうじ、くよくよ悩むことになるかもしれません。

 

 

 もちろん、本心の愛情や好意、感謝や信頼、尊敬から、相手の飲みものも一緒に持っていくことが、まったくないわけではないでしょう。

 

 けれども、主に職場に代表されるような社会的場面で、こうした“単独行動”をやってしまうと、あとですごく面倒なことになってしまう可能性が高いわけです。

 

 だからこそ、形式的にでも、最初から、他人の分も一緒に持っていった方が、いろいろと、都合がいいのです。

 

 つまり、いつでも本音を明かすわけではない、駆け引き、取り引き、策略、忖度ありまくりの、複雑でめんどくさい人間社会で生きていく上では、必要不可欠な、「自己防衛能力」、といっていいでしょう。

 

 

 私たち人間にとって、思ってもいないことを言ったりやったりするのは、お手のものです。

 

 例えば、「愛想笑い」の能力は、他のどんな動物にも備わっていません。

 

 別におかしくなくても、嬉しくなくても、とりあえず、へらへら笑っていれば、何となくその場がなごみ、面倒な争いごとを回避することだってできるでしょう。

 

 

 つまり、我々人類は、信頼し合っているから、他人の分もコーヒーを持ってくるのではなくて、信頼し合っていないから(それを隠蔽するために)、他人の分も、コーヒーを持ってくるのです。

 

 

 ウルトラマン

 そのへんを、誤解していないといいけれど……… 

 

 

 

                                  《つづく》