他人の星

déraciné

映画『象は静かに座っている』(1)

 

 

 「私は今のところ自殺を好まない。恐らく生きるだけ生きているだろう。そうしてその生きているうちは普通の人間の如く私の持って生れた弱点を発揮するだろうと思う。私はそれが生だと考えるからである。私は生の苦痛を厭うと同時に無理に生から死に移る甚だしき苦痛を一番厭う。だから自殺はやりたくない。それから私が死を択ぶのは悲観ではない厭世観なのである。」

                           『漱石書簡集』より

 

 

 人は、どんなときに、死のうとするのでしょうか。

 

 死にたい、死んでしまいたい、と思うこと自体は、誰にでも、日常的によくあることではないのだろうかと思います。

 

 けれども、たいていの場合は、朝、重い体を起こして、顔を洗い、ごはんを食べて、外の世界へと出かけていくのです。

 

 かなしみで、どんなに胸が痛くとも。

 苦しくて、つらくて、息がつまりそうでも。

 

 

 ドラマや何かで、登場人物が、悲しい涙を流しながらご飯を食べる場面を見ると、何とも言いようのない気持ちが湧いてきます。

 

 私自身、大好きなカレーに、涙を落としながら、自分の涙ごと、カレーを食べた思い出があるからかもしれません。

 

 あふれ出るかなしみや苦しみが、涙になって、ぽたぽたと、頬を伝うのに、「食べる」という行為は、その時点で、生きることを選んでいる、ということになるからでしょうか。

 

 

 漱石もまた、「死は生よりも尊い」と、繰り返し書きました。死んではじめて、本来の自分に戻れる、と考えていたのです。

 そして、生から死へ移る、急激な変化に伴う甚だしい苦痛、つまり、死へのおそれが、彼をして、「自殺はやりたくない」、と言わせていたのかもしれません。

 

 

 人間が、自殺をやり遂げてしまう理由は、本当に千差万別ですが、共通している点も、いくつかあるように思います。

 

 

 たとえば、自分の居場所がない、もしくは、なくなること。

 自分の生の価値が、著しく貶められること。

 

 

 いま、思いつくのは、そんなところです。

 そして、かなしいのは、その多くが、人と人との間で起こる、という現実です。

 

 どうやら人間は、どんな動物を狩るよりも、同種同類であるところの人間を狩ることが、好きで好きでたまらないらしいのです。

 

 いらなくなれば、何でも捨てる人間は、しまいに、同種同類であるところの人間をも、「おまえはゴミだ、クズだ」と、ゴミの山に捨てます。

 

 

 こんなことを考えたのは、この映画の監督が、29歳の若さにして自殺し、『象は静かに座っている』は、デビュー作兼遺作となってしまったからです。

 

 

 なぜ、そんな若さで、もったいない、というのは簡単ですが、私は、自殺の既遂というのは、たとえ肉体の方にはまだ余命があったとしても、精神の方で寿命を迎えた、ということなのではないのだろうか、と思うのです。

 

 

 私自身、大学時代の友人に先立たれたことがありますが、お葬式のとき、棺の中にみた彼女の表情は、生きていたどんなときよりも、安らいで、幸せそうに見えました。

 

 だから、私は、彼女の遺族や親しい人たちが集まっているその場所で、少しもかなしみを感じなかったのです。

 

 苦しかったね。でも、終わったんだね。よかったね………

 

 私は、たったひとり、涙ひとつ流せずに、心の中で、彼女に語りかけました。

 

 

 

 『象は静かに座っている』。

 その監督、フー・ボー氏のことなど、当然のことながら、何一つ知りません。

 ですが、この映画を観た私の頭は、勝手に、理由を憶測してしまいました。

 

 

 この人は、“現実”という檻の中から、生きている以上は決して出られない人間の現実を、あまりにもまっすぐに、目を見開いて、見てしまったのではないのだろうか、と。

 

 

 

 

                                《つづく》