「わたし、ここにいても、いいのかな」
ところで、「居場所がない」とは、どういうことなのでしょうか。
「学校に居場所がない」、「家庭に居場所がない」などとよく言いますが、そこには、人間の生き死ににかかわるほどの、切実な意味があると思うのです。
精神分析の創始者フロイトは、著書『夢分析』の中で、夢に出てくる空間は時間を表す、と述べています。
たとえば、狭い空間なら短い時間、広い空間なら長い時間を表す、ということです。
また、三次元の生きものであるヒトは、空間の存在なしに時間を測ることはできず、時間の存在なしに空間を測ることはできません。
このように、人間が生きていくには、時間と空間は必至のものだということができるでしょう。
要するに、「居場所がない」、というのは、ある一定の時間、自分がそこで過ごすことのできる空間がない、と感じていること、といえそうです。
「わたし、どこに行ったらいいの?」
時間としてみた場合、人間の一生、というものは、果たして、長いのでしょうか。短いのでしょうか。
いずれにせよ、他人とは違う「自分」という意識と身体をもってこの世に存在している以上、その間の時間をやり過ごさなくてはならず、自分が占めていてもいい場所がどうしても必要です。
学校に来れば、クラスの教室にある、自分の座席。
仕事に行けば、職場の、決まった場所にある、自分の机。
家に帰れば、自分の部屋、もしくは、家族が揃う食卓の、自分の席。
肉体という物体をもって存在している以上、その肉体を、ある一定の時間、「置いておける」「収めておける」場所がなければ、文字どおり、身の置き場がなくて、困ってしまうことになります。
そして、もう一つ、空間として、座席や机などの居場所はあるけれども、そこにいることが「許されていない」、「受け容れられていない」、「場違いと感じる」、「拒否されている」、「いたたまれない」など、いること自体が苦痛に感じられる場合、その「困り具合」は、もっと深刻です。
たとえば、学校に「居場所がない」と感じると、クラスに自分の机はあっても、不登校か保健室登校、あるいは、家に自分の部屋があって、そこにいる限り、外から脅かされる心配がなければ、「引きこもる」のではないでしょうか。
逆に言えば、「居場所がある」、というのは、自分がある一定の時間を過ごすことのできる場所があり、それを他者からも認められ、受け入れられていることの両方の条件が揃っていなければならない、ということになります。
学校や家庭、職場、地域など、その人の所属集団を、「社会」、あるいは、もっと象徴的に広く捉えて「世界」と言いますが、「居場所」というものは、どうやら、他者なり、他者からなる集団から、与えられたり奪われたりする、といってもいいのではないでしょうか。
そんなふうに考えていると、私は、「居場所がない」と感じること、あるいは、人間の寄り集まりであるところの社会集団から居場所を奪われることというのは、ある種、「呪い」のようなものなのではないか、と思えてくるのです。
「わたしは、呪われている」
未開社会や一部の部族では、呪術の力が信じられており、実際に、呪われた人を死に至らしめてしまうことがあるそうです。(安田一郎著『感情の心理学―脳と情動―』青土社 1993年)
呪いの完成は、「お前に呪いをかけたぞ」と、本人に告げることだ、ときいたことがあります。
そうして、呪いをかけられた人は、毒を盛られたわけでもないのに、過度の情動ストレスによって、食べることも眠ることもできなくなり、衰弱して死んでいくのですが、注目されたのは、暗示の力と、「呪われた人」に対する集団の態度の変化でした。
人間は、社会的動物であり、自分の所属集団から仲間として受け容れられたい、それも、なるべく好意的な感情でもって自分の価値を認められたい、という欲求をもっています。
実は、「呪い」が攻撃するのは、人間のこの基板の部分なのです。
呪いをかけられた人は、それまで仲間として受け入れられていた集団から、「不吉な存在」として避けられ、共同体的な支援や援助をまったく受けられないばかりか、完全に無視され、社会的にはすでに死んだ存在のように扱われ、絶望に陥り、死んでいくのです。
《つづく》