映画『象は静かに座っている』(6)
高校生の少年、ブー。
その同級生の少女、リン。
ブーと同じ共同住宅に住む高齢男性、ジン。
そして、炭鉱業が廃れ、世界から忘れ去られた、小さな田舎町の不良グループのリーダー、チェン。
ビリヤードに例えるならば、彼ら4人の運命の球は、あちらへ突かれ、こちらへ突かれ、それぞれが、思わぬ場所へと、転がっていきます。
ここで重要なのは、彼らが、誰一人として、その運命や結末を、自ら望んだわけではない、ということでしょう。
何もかもが、思いどおりにならない、「こんなはずではなかった」自分の人生の行く末を思うことにすら、疲れてしまったかのような、彼ら4人の目は、共通して、不思議に落ち着き払っているのです。
この世への失望と怒りを放出した後、(少なくとも、現時点では、不良集団のリーダーという居場所のあるチェンを除いて)、ブー、リン、孫娘を連れたジンは、丸腰のまま、心に浮かぶ、たった一つの目的地へ向けて、動き出します。
それが、満州里の動物園で、一日、何もせずにただ座っている象を見に行くことなのです。
この「象」が示しているものは、いったい、何なのでしょう?
「生産性は幸福を渇望するが、幸福は生産性を必要としない」
大人になってしまうと、自分がかつては子どもだったことを忘れてしまい、日々、束になってかかってくる社会に抗い、自分を守るのに精一杯で、つい、「ああ、子どもの頃は、気楽でよかったなぁ~」、などと思ってしまったりします。
けれども、本当にそうだったのでしょうか。
人間は、どうしても、世界、つまり他者との関わりをもたずに生きていくことはできないため、子どもは、むりやりに産み落とされたこの世界と“うまくやっていく術”を身につけていかなければなりません。
まだ未熟な術しか身につけていない子どもは、とにかく、日々襲ってくる日常の課題を、ハードルのように、いくつかは後ずさりし、いくつかは倒し、いくつかは何とか飛んで、一日を終えます。(大人だって、そうですが)。
保育所なり、幼稚園なり、あるいは、公園に遊びに行ったって、どこにでも、他者の集団はいて、そこをうまく切り抜けなくてはならないのに、それ以外にも、やらなければならないことは、山ほどあります。
たとえば、こんなふうに……
朝、定時に起きて、洋服を着替え、食欲がなくても朝食をとり、歯を磨き、顔を洗い、定時に家を出て、スクールバスに乗って、幼稚園に行って、お遊戯、運動、お絵かきをこなし、やっと一日終わるかとほっとして、「お友だち」とおしゃべりしたら、そのつもりはないのに、怒らせてしまって、どんより落ち込んで、ああ、何だか、胸が痛いなあ、もう、幼稚園なんて、行きたくないなあ……。
私は、いつも、幼稚園に迎えに来ている母と一緒に、祖母の家へ寄り、そこでお昼を食べて、少し休んでから、帰宅していました。
祖母の家では、(母いわく、「自立に失敗した」)叔父が、居間に面した部屋の、いつも敷きっぱなしの布団の上で、寝たり起きたりしていました。
それを見ると、私は、何だか、わけもなくほっとしたのです。
幼稚園で、しくじりながらも何とか日課を終えて、くたくたに疲れていた私には、まるで天国でした。
それで、叔父がいやがろうがおかまいなしに、自分もその布団の上に走っていって、ごろごろしていました。
いいなあ、おじさん、ほんとに、いいなあ……。
そう感じていました。
今思うと、私にとっては、おじさんこそが、“静かに座っている象”、だったのかもしれません。(こんなふうに言われて、おじさんがどう思うかは別として)。
外側の世界のルールや、時間に従い、慌ただしく、とにかく「~しなさい」だらけで、人と生まれたからには、そのままでいてはいけない、とにかく動かなければならない、何かしなければならない、それだけでなく、他人の役に立つようなことをして、他人から求められ、認められるような存在にならなければならない、という圧迫が、子どもなりに、苦しかったのかもしれません。
「せめて、私らしく」
人は、何かの、ちょっとした加減で、あちらへ転がり、こちらへ転がり、自ら望んだわけでもない場所へと追い込まれ、しかも、その行く末は決して、安心や安楽を約束しません。
なのに、人は皆、一人ひとり、自分の為したことや、その結果について責任をもたせられ、場合によっては、自己責任論によって強く責め苛まれたあげく、社会からのけものにされます。
何もしない、人の役に立とうとしない、(特に、「お金」という数字、目に見える結果や成果をあげようとしないこと)、つまり、「非生産的であること」は、容赦のない、いわれのない差別や偏見にさらされます。
映画『象は静かに座っている』の中の、何もせず、ただ座ったままの象とは、“非生産性”の象徴ではないのだろうかと、私は思うのです。
自尊心を、最後のかけらまですべて破壊されたら、その先には、絶望と死しか待っていないのではないでしょうか。
だからこそ、ブー、リン、ジンは、誰も顧みてくれない自らの自尊心に、少しでも、安らぎを与えようと、一縷の望みを求めて、満州里の動物園へ向かったのではないでしょうか。
映画のラスト、彼らは、満州里へ直接向かう列車が運休になったため乗れず、それでもその日のうちに、少しでもその場所へ近づこうと、途中の町まで行くバスに乗ります。
彼らが、無事、満州里の動物園についたとして、ただ座ったままの象を見たとして、そのあと、彼らが、どうなるのか、どうするのかなど、わかりもしません。
この世に、むりやり産み落とされた以上、何とかして生きなければ、そしてもし、生きる力が不足しているのなら、残りの力をふりしぼって、自らに、呼吸させようとする、それが、いのちというものなのかもしれません。
映画のラストシーン、すっかり日が落ちて、バスから降りた3人の背景に、象の鳴き声が響き渡ります。
かなしいような、怒りに満ちているような、いずれにしても、私にはその声が、生きる「痛み」のように感じられたのです。
《終わり》